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騎馬遊牧民

騎馬の技術に優れた遊牧民。特にユーラシア大陸内陸部で活動、農耕民と交易を行うだけでなく、しばしば襲撃した。匈奴、突厥、モンゴルなど大帝国を作り、世界史の中の重要な役割を担っている。

騎馬遊牧民
騎馬遊牧民の像 モンゴル高原のイノン=ウラ出土
 遊牧民にとって馬は最も重要な移動用家畜であっただけでなく、農耕民との戦闘に際してその騎馬技術が大きな戦力となった。そのような騎馬技術に優れた遊牧民を騎馬遊牧民、あるいは遊牧騎馬民族、単に騎馬民族ともいう。彼らは、ユーラシア大陸の東西を結ぶ草原の道(ステップ=ロード)で活動し、時としてオアシスの道(シルク=ロード)に侵出して、オアシス農耕民や商業民族を支配下に置き、強大な国家を作ることがあった。騎馬遊牧民が作った国家は遊牧国家という。世界史上に登場する主要な騎馬遊牧民には、前7世紀頃の南ロシア草原のスキタイがその最初であり、ついで匈奴五胡イラン系トルコ系モンゴル系の騎馬遊牧民がほぼ15~16世紀頃まで興亡した。中国の農耕民である漢民族から見れば、彼らは北方民族であった。

遊牧民の定住地帯への移動

 9~10世紀、内陸アジアでは遊牧民が定住地帯に移動して定住民化した。それはモンゴル人の東トルキスタンへの定住、カルルク人のカラ=ハン朝の建国、セルジューク族の定住化などの動きであり、それに伴って中央アジアのトルコ化(トルキスタンの成立)が進み、並行してイスラーム化も進んだ。一方、中国では契丹の遼を初めとして金、元、清という騎馬民族系の征服王朝が生まれていく。これらは、かつての匈奴帝国や突厥帝国が草原を本拠にして農耕地帯を支配したのに比べ、農耕地帯に移住して定住するようになったことが異なる。遊牧世界の大きな変化であるが、その変化が何故起こったかはまだよく分かっていないが、ウイグル人のマニ教や、セルジューク人のイスラーム教のような都市的な宗教を受容したこととの関係を指摘する説もある。<間野英二ら『地域からの世界史8 内陸アジア』1992 p.57-60> 

騎馬遊牧民の時代の終わり

 ユーラシア内陸での騎馬遊牧民の活動は、13世紀のモンゴル帝国の成立をピークとして、16世紀頃まで続く。しかし騎馬遊牧民の活動は15世紀末に始まる「地理上の発見」による交易ルートの海上への移動したこと、さらに16世紀に戦闘形態が騎馬戦術かr鉄砲や大砲などの火器を利用されるようになったことによって、衰える。騎馬遊牧民の「陸上交易」と「騎馬戦術」という機能の価値を低下させたためである。かつてマムルークとして知られた騎馬遊牧民の代表であるトルコ系民族の後裔であるオスマン帝国が、従来の騎士に代わって、鉄砲を持った歩兵であるイエニチェリを新戦力にするという転換を行ったのも戦闘形態の変化に対応したことであった。またモンゴル高原では18世紀に最後の遊牧国家ジュンガルが清朝によって滅ぼされ、19世紀後半にロシアの南下政策によって中央アジアの三ハン国や遊牧民トルクメン人がロシアの支配下に入ったことが、騎馬遊牧民の時代が終わったことを示している。