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ラヴェンナ

北イタリアの都市でビザンツ様式の文化の中心地の一つ。756年にピピンがローマ教皇に寄進し教皇領の最初となる。

ラヴェンナはイタリア北部でアドリア海に面した港。アウグストゥスがこの地に軍港を設けてから、ローマ帝国にとって重要な都市となった。西ローマ帝国ではミラノについで402年に都とされた。その後も軍港として重要性を持ち続け、西ローマ滅亡後はオドアケルがこの地に都を置いて一時支配した。オドアケルの国が東ゴートに滅ぼされてからは、東ゴート王国もこの地を都とした。東ゴート王国を建国したテオドリックの墓もこの地に残っている。

ビザンツ様式の美術が栄える

 540年、東ローマ帝国のユスティニアヌス大帝が地中海世界の回復に乗りだし、この地を東ゴート王国から奪回し、ラヴェンナ総督府を置いて統治した。ラヴェンナのサン=ヴィターレ聖堂は大帝の肖像などのモザイク壁画で有名であり、ビザンツ様式の文化の代表的な美術遺品となっている。

ピピンの寄進でローマ教皇領となる

 ゲルマン人の大移動の最後にイタリアに侵入してきたランゴバルド人は東ローマ帝国が東ゴート王国を征服する戦いに協力して、北イタリアにランゴバルド王国の建国を認められた(都はパヴィア)。しだいに東ローマ帝国(ビザンツ帝国)と対立するようになり、751年にこの地を征服、ラヴェンナ総督を追い出した。さらにローマ教皇の支配するローマに迫ったので、ローマ教皇はフランク王国に救援を依頼、カロリング朝のピピンが、756年にランゴバルド王国からこの地を奪い、ローマ教皇に寄進した。これがピピンの寄進と言われる出来事で、ローマ教皇領の始まりとなった。

その後のラヴェンナ

 ローマ教皇領であったが、大司教が置かれて次第にローマから独立した勢力となり、15世紀中ごろには一時、ヴェネティアに支配された。その後、ルネサンス時代の教皇ユリウス2世が教皇領に奪還した。イタリア戦争の中で北イタリアに侵攻したフランス王ルイ12世が、1512年、教皇ユリウス2世がスペイン、ヴェネティア、スイスと結んで結成した神聖同盟軍との間でこの地で会戦し、敗北した。このラヴェンナの戦いは「近代最初の大会戦」といわれている。

Episode 悲運の女帝ガラ=プラキディアの墓

 1928年3月30日、ラヴェンナを訪問した和辻哲郎は次のような印象を書き残している。

(引用)ラヴェンナという町は、ボローニャの東方4、50マイル、東海岸から4、5マイルのところにある田舎町で、外観はいかにも物寂しく、世間から取り残されているような感じであるが、しかしかつてはローマ帝国の都がここに移されていたこともある。そのなごりはモザイックの絵として残っている。モザイックの絵ではほかにこれに及ぶものはないように思われる。<和辻哲郎『イタリア古寺巡礼』岩波文庫 p.222>
 そしてその地に残された「西ローマ帝国最後の女皇として数奇な運命に弄ばれたガラ・プラチディアの墓」を見て、「この墓は、外観がいかにも見すぼらしい煉瓦建てで、建築としての美しさなど少しもないのであるが、中にはいって見てあっと驚いた。・・・アーチ型の天井や側壁に一面に豪華なモザイックの絵や文様がひろがっている。それが保存もよくできばえも実に素晴らしい。・・・」と詳しく感想を述べている。
 この墓の主、ガラ・プラチディアについては、藤沢道郎『物語イタリアの歴史』中公新書に詳しく述べられている。同書ではガラ・プラキディアとなっているこの女性は、ローマ皇帝テオドシウスの娘であった。テオドシウスの死後、ローマが東西に分かれると彼女はローマで育った。やがて西ゴート人のアラリックが侵攻してローマが焼き討ちにあったとき、彼女はその捕虜として西ゴート人と行を共にすることになる。アラリックの弟アタウルフが彼女を見初め、彼女もこの青年を愛して結婚する。アラリックの死後、西ゴートを率いたアタウルフは、ガリアに進出し、さらにイベリア半島にはいってピレネー山脈をまたいだ西ゴート王国を建設、トゥールーズを都にし、ガラ=プラキディアもその王妃となった。ところがアタウルフはバルセロナで暗殺されてしまう。未亡人となった彼女は、一時は奴隷と同じ身分にまで落とされながら、夫の遺言でラヴェンナに戻ることが許された。ラヴェンナの西ローマ帝国宮廷の廷臣と結婚し子供をもうけたが、皇帝ホノリウスは無能で、実権は彼女に移っていく。こうして彼女は実質的な女皇の地位に25年間とどまったが、その間も東ローマとの関係で波乱が相次いだ。統治に絶望したのか、彼女は次第にキリスト教の信仰に熱心になりローマ教会の保護者となろうとしたのか、都をローマに戻し、その地で450年11月27日、静かに息を引き取った。遺骸は防腐措置が施されてラヴェンナに運ばれ、あの石棺に納められた。その遺骸は、石棺のわずかな穴から見ることが出来たと言うが、言い伝えによると1557年のある日、不注意な観覧者が石棺の中を覗こうとしてロウソクを穴に近づけたところ、屍衣に火がつき、あっという間に遺体は灰燼に帰してしまい、今は見ることができない。<藤沢道郎『物語イタリアの歴史』1991 中公新書 p.2-28>
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ノートの参照
第6章1節 エ.ローマ=カトリック教会の成立
書籍案内

和辻哲郎
『イタリア古寺巡礼』
1991 岩波文庫

藤沢道郎
『物語イタリアの歴史』
1991 中公新書