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イングランド王国

9世紀ごろブリテン島の南部を中心として統合が進み、ほぼ10世紀までに王権が成立した。特に1066年のノルマン朝以来、王権を強化し、大陸内にも領土を持って強大となったが百年戦争で大陸領を失った。日本では「イギリス」と同義で用いられるが、現在も連合王国を構成する一王国である。

 ブリテン島にゲルマン人が作ったアングロ=サクソン人の7王国は9世紀ごろから統合が進み、10世紀ごろ、イングランド王国として王権を確立した。その間、デーン人の侵攻、アルフレッド大王の統治の後、973年にエドガー王がイングランド王として戴冠式を挙行し、形式的にも王国の成立を見た。11世紀にはデーン朝を経て、1066年のノルマン=コンクェストによって成立したノルマン朝のもとで王権を強化し、フランス内の領地も併せて支配した。1154年からのプランタジネット朝も大陸領を有していたが、14~15世紀の百年戦争でその大半を失しなった。続く内戦のバラ戦争で封建領主が没落、絶対王政を出現させた。その後、イングランド王国はイギリス革命によって王権を制限され、議会政治に転換を遂げながら、一方ではブリテン島内のウェールズを征服、1707年にはスコットランドを併合してグレート=ブリテン王国を、1801年にはアイルランドを併合してグレート=ブリテンおよびアイルランド連合王国を成立させた。18世紀以降はイングランドを「イギリス」と捉えてよいが、逆に言うとそれ以前のイングランドを「イギリス」と称する場合は注意を要する。

参考 イングランドとイギリス

 イングランドは、学校世界史ではイギリスと同義として説明されることが多いが、厳密には現在のイギリス(グレートブリテン・北アイルランド連合王国)を構成する、歴史的に一つの独立した国家である。国際政治上は外交権はイギリス政府がもつが、歴史的伝統をふまえて、サッカーやラグビーなどのスポーツでは「イングランド」として出場している。イングランドが国際試合をするときの「国旗」賭して掲げるのは、白地に赤い十字の「セント・ジョージ旗」である。 → 参照 ユニオン=ジャック
 歴史的にイングランドを主体としてブリテン島およびアイルランドの統合が進んできたので、イングランド=イギリスという認識が一般的であったが、20世紀末、冷戦終結後の世界的な分離独立運動の高まりの中で、従来の北アイルランド紛争に加え、スコットランドウェールズでの分離独立を求める動きが激しさを増している。特に21世紀の現在、イングランドとそれらの地域の歴史的な違いを理解することが必要になってきた。イングランドの歴史をそのまま「イギリス」の歴史として語ることには反省がなされている。

イングランドとは

 イングランド England はブリテン島の南西部の広い範囲をさす地名であるが、本来は「アングル(アングロ)人の島」という意味である。Engl- は Angl- に由来し、English は「アングル人(の言葉)」を意味する。アングル人とは、5世紀から大ブリテン島に侵攻した、ゲルマン系のアングロ=サクソン人のことで、彼らはローマ帝国の属州ブリタニアが消滅した後に七王国(ヘプターキー)を形成した。また、彼らが使用した言語が、現在の英語のもとになった言語である。

イングランド王国の成立過程

 イングランド王国の成立時期には、いくつかの見解が分かれており、混乱が見られる。教科書では、829年のウェセックス王エグバートによって七王国が統一されて、イングランド王国が成立した、とされることが多いようだが、そうは単純でなさそう。以下、いくつかの見解を整理した。なお、※印は高校教科書や用語集には取り上げられていない事項なので、受験レベルでは無視されても致し方ない。
  • エゼルバルド王※ 七王国の中で有力となった中部のマーシアの王(在位716~757)。このころキリスト教が広がったが、王は教会への徴税や住民への賦課を厳しくし国力を伸ばし「南イングランドのすべての者の王」と自称した。しかし強引な姿勢が反発され、家臣によって暗殺された。
  • オファ王※ マーシア王国のオファ王(在位757~796)はイングランドに登場した王として大陸で初めて知られた。マーシアの内紛を収めたあと他の六国に襲いかかり、エセックスとサセックスを滅ぼした。ウェセックスもその宗主権を認めた。オファはイングランドで最初の法典を編纂し、後のイングランドの通貨の基準となる「銀ペニー貨」を造幣し横顔と名を刻ませた。この銀貨がイングランド全土で流通したことは彼は「イングランドの王」として認められたことを示している。しかし王権の基盤は脆弱であったため、その死後、マーシアは急速に衰えた。<君塚直隆『物語イギリス史上』2015 中公新書 p.13 の説明>
  • エグバート ウェセックス王エグバートはマーシア王国を829年に破り、829年には宗主権下においた。しかし、エグバートの直接的支配はウェセックスとコーンウォール地方、テームズ川以南に限られていた。海岸地方にはノルマン人の侵攻(ヴァイキング)が続いており、9世紀の中ごろにはデーン人がイングランドの大部分を制圧するに至った。
  • アルフレッド大王 ウェセックス王アルフレッド大王(在位871~899)は、デーン人を北東部に押し戻し、886年、ロンドンを奪回した。アルフレッドは貨幣を発行し、そこには「ウェセックスの王」ではなくラテン語で「イギリス人の王」と刻印した。七王国ではイースト=アングリア、マーシア、ウェセックス、ノーサンブリアの四国が残っていたが、これらの王と各地の豪族は、アルフレッドからその領地を認めてもらう必要があり、ウェセックス王が「領地権利証書」を発行する権利を握った。また法典を整備し、学問を保護して「大王」と言われたので、この時期を実質的なイングランド王国成立とする説明も多い。<君塚直隆『物語イギリス史上』2015 中公新書 p.17 の説明>
    アルフレッド大王はイングランドに新たな行政区分として州(シャイア)が導入した。10世紀には州制度は拡充され、州の長官はシェリフと呼ばれる地方行政官となる。この時の州区分は1974年の改変まで1000年にわたって存続した。
  • アゼルスタン※ ウェセックス王アゼルスタン(在位924~939)はアルフレッド大王の孫。デーン人からヨークを奪回。927年ごろから彼が発行する領地権利証書に「イングランド王」の称号を用いる。アルフレッドに始まる州制度を拡張、通貨も発行。王の立法、司法にかかわる賢人会議を発足させる。最初にイングランド王と称した王と言える。<君塚直隆『物語イギリス史上』2015 中公新書 p.17-21 の説明>
  • エドガー王※ ウェセックス王(在位959~975)でアルフレッド大王の曾孫。ようやくイングランドを統一し、各地の有力者を集めて境界を巡行し、教会と王権のコラボレーションとして、973年にバース(ローマ時代からの温泉で有名)の遺跡で戴冠式を行った。古代的な戴冠とキリスト教の塗油の礼によって、イングランド王国の君主がシンボリックに生まれた。<近藤和彦『イギリス史10講』2013 岩波新書 p.32 の説明>
    973年のエドガー王がイングランド王として戴冠式をあげた前後では、962年に神聖ローマ帝国オットー大帝がローマで戴冠式(オットーの戴冠)、987年にフランス王国のカペー朝ユーグ=カペーがランスで戴冠式をそれぞれ挙行しており、戴冠式が重要な意味を持ちようになった。<君塚直隆『物語イギリス史上』2015 中公新書 p.23>
  • クヌート王 1016年にはデーン人クヌート(カヌート)王がイングランド王として迎えられデーン朝が成立した。クヌートはイングランドをノーサンブリア・イースト=アングリア・マーシア・ウェセックスの4つの伯領(アールダム)に分け、それぞれの伯(アール)に統治を委託した。この時代から有力貴族は「伯」となった。クヌートはイングランドの他に、デンマーク、ノルウェー、スウェーデンの一部も支配し、その国は北海帝国とも言われた。しかし、1035年にクヌートが死ぬと急速に分解した。<君塚『同書』 p.26>
  • エドワード証聖王※ 1042年、アングロ=サクソン人の支配を復活させたエドワード王(ウェセックス王家エドガーの孫)は、ウェストミンスター教会を建設するなどキリスト教の保護に熱心で「証聖王」(または懺悔王)と言われた。11世紀のイングランドの各地には多くの教会が建設され、農村では春蒔き・秋蒔きで異なる穀物を育てる二圃制が行われ、さらに三圃制も始まり、封建社会の形成が進んだ。<指昭博『図説イギリスの歴史』2002 河出書房新社>
  • ハロルド王の即位※ エドワード証聖王は父のエセルレッドの亡命先ノルマンディーで育ったため、英語は話せず、フランス語を話し、しかも宮廷の要職は王が連れてきたノルマン系貴族に占められたため、イングランドのアングロ=サクソン系貴族の不満が強まった。1066年1月にエドワード王が継嗣なく死去すると有力貴族はゴドウィン家のハロルドを王位につけた。それに対して異議を申し立てたのがノルマンディ公ギョームだった。ギョームの祖父がエドワード証聖王の母エマである、というのがその口実であった。
  • ノルマン=コンクェスト 1066年9月、ノルマンディからノルマンディー公ウィリアムが侵攻して、いわゆるノルマン=コンクェストによって王位に就いた。ウィリアム1世はイングランド全域に支配を及ぼし、このノルマン朝から、初めて王によって統治される実質的なイングランド王国が成立したと見ることもできる。
 このように「イングランド王国の成立」は複雑な経緯があり、アングロ=サクソン人、およびその前のケルト人、さらに征服民であるデーン人・ノルマン人などによって重層的に作り上げられた国家であり、しかもデーン朝、ノルマン朝のようにヨーロッパ大陸と一体であったことを抑えておく必要がある。 → イギリス

ノルマン朝

・ウィリアム1世 イングランドのエドワード証聖王が後継者を指名せずに死去すると、大貴族の一人ゴドウィン家のハロルドが王位を称した。それに対して大陸のノルマンディー公ウィリアムが、エドワード王の母の甥にあたることから王位継承権を主張し、海峡を越えてイングランドに上陸、1066年にヘースティングスの戦いでハロルド軍を破り、イングランド王ウィリアム1世として即位した。これが1066年のノルマン=コンクェスト(ノルマン征服)であり、これによってノルマン朝が成立した。
・ノルマン朝の特色 ノルマン朝はウイリアムによる征服の結果成立したので、フランスのカペー朝などにくらべて王権が強大であること、封建的主従関係が強固であることなどが特徴だった。また、ノルマン朝はイングランド以外にノルマンディにも領地を持ち、イングランド王であると同時にノルマンディ公としてはフランス王の臣下であるという関係にあった。同時にノルマン朝の宮廷ではフランス語が話され、従来のアングロ=サクソン人の話していた英語は庶民階級の言語とされるとともに、フランス語の語彙を幅広く取り入れ、英語史で「中英語」と言われる言語に変質していった。

プランタジネット朝

 1154年、ノルマン朝が断絶するとフランスのアンジュー伯のアンリは、母がノルマン朝王家の出身であったことから王位継承を主張しヘンリ2世として即位、プランタジネット朝が成立した。
・アンジュー帝国  ヘンリ2世はイングランド王であると同時にフランスにアンジューとノルマンディーの領地を持ち、さらに婚姻によってアキテーヌも併せアンジュー帝国と言われる広大な所領を有していた。しかし次のリチャード1世十字軍に加わったり、欧州を転戦したりで国内にとどまらず、次のジョン王もフランス王と争ってフランス内の領地を失い、さらにローマ教皇と争って波紋とされるなど失政が続いた。
・マグナ=カルタ 1215年、ジョン王は貴族によって王権が制限されるマグナ=カルタを承認した。これ以後、王権と身分制議会の関係が重要な対立軸となって行き、ヘンリ3世は再び大陸遠征を目論んで戦費を課したため貴族の反発を受け、貴族はモンフォール議会を開催した。これらの初期議会は次第に議会制度として定着して行き、エドワード1世模範議会を設置するなど、新たな王権のあり方を模索しつつ、スコットランドやウェールズに出兵して、ブリテン島の統一支配に乗り出した。 → イギリス

百年戦争とバラ戦争

 プランタジネット朝のエドワード3世は、フランスのヴァロワ朝の成立に際して異議を申し立て、1337年に宣戦を布告して百年戦争が始まった。百年戦争は王位継承の争いから始まったが、本質はフランス内部のイギリス王領をめぐっての戦争であった。百年戦争でフランス内のイギリス領をほぼ失ったが、さらにイギリスでは王位継承をめぐってヨーク家とランカスター家が争ったバラ戦争が起こり、長期にわたる戦争の結果、封建領主の力は衰え、反対に王権は強化されることとなった。

テューダー朝

 バラ戦争の過程で成立したテューダー朝ヘンリ7世は、貴族を抑え、絶対王権を強化した。次のヘンリ8世エリザベス1世イギリス宗教改革を推し進めて国教会制度を確立させ、毛織物産業の勃興を背景に、スペイン、さらにオランダと構想して海外進出を開始、大国への道を歩んだ。 → イギリス

立憲君主政へ

 17世紀はイギリス革命を経て立憲君主国に脱皮し、他のヨーロッパ諸国に先駆けて議会政治の体制を実現した。このような政治体制の変革の原動力となったブルジョワジーが社会的にも中核となっていった。アン女王の死去によってテューダー朝の王統が絶えたため、1714年からはハノーヴァー朝が成立し、その世紀の後半に産業革命が始まり、世界の工業化のさきがけとなった。
 この段階では「国王は君臨すれども統治せず」という原則が確立しているので、国王が誰であったかは大きな意味は無くなっているが、国王は国家の統一維持には一定の機能を果たしており、王家の継承は続いた。1901年からはドイツから国王を迎え、サックス=コーヴァーグ=ゴータ朝(第1次大戦勃発によりウィンザー朝に改名)となり、現在に至っている。 → イギリス

スコットランド・ウェールズの併合

 ブリテン島には北方のスコットランド、西方のウェールズが独立した王国を形成していた。次第にイングランドの優位が確立し、1536年にはウェールズを併合し、1603年にはスチュアート朝のもとでスコットランドと同君連合の形をとり、1707年に両国は合同して「グレート=ブリテン王国」となった。

イングランドから「イギリス」へ

 1707年にイングランドとスコットランドが「合邦」したことによって、それ以前の「イングランド」「スコットランド」とは別の国になったので、これ以後を区別して「イギリス」と呼ぶ、という提唱もある。<君塚直隆『物語イギリス史上』2015 中公新書 p.vii>
 1801年1月1日をもってグレート=ブリテンおよびアイルランド連合王国が成立、イギリスの国旗に「ユニオン・ジャック」が用いられるようになった。なお、1922年、北アイルランドを除いたアイルランドが独立し、アイルランド自由国が成立したため、「グレート=ブリテンおよび北アイルランド連合王国」となる。つまり現在もイングランドはスコットランドとの連合王国(United Kingdom)の形式をとっており、スコットランドおよびウェールズの分離独立要求を抱えている。国際的な主権国家としては「イギリス」として一つの国家を形成しているが、サッカーやラグビーなど、この地で発達したスポーツの国際試合は、あいかわらず「イングランド」「スコットランド」「ウェールズ」は個別のチームとして参加しているのは周知のことである。
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ノートの参照
5章1節 キ.外敵の侵入と西ヨーロッパの混乱
書籍案内

指昭博
『図説イギリスの歴史』
2002 河出書房新社

写真と図版が豊富。説明も要領を得て、手ごろなイギリス史の概説書となっている。


近藤和彦
『イギリス史10講』
2013 岩波新書

君塚直隆
『物語イギリス史 上』
2015 中公新書