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マルクス=アウレリウス=アントニヌス

2世紀後半、五賢帝の5番目の皇帝。ローマ帝国最盛期の皇帝であるとともに、『自省録』等の著作のあるストア派の哲学者としても知られる。

五賢帝の最後の哲人皇帝

マルクス=アウレリウス=アントニヌス

『ローマ帝国―地図で読む世界の歴史』河出書房新社 p.65より

 ローマ帝国の全盛期、五賢帝の最後のローマ皇帝。スペイン生まれのストア派哲学者として知られており、皇帝アントニヌス=ピウスの養子でその女婿となった。個人名としては単にマルクス=アウレリウスといわれる(皇帝としては省略してマルクス帝ということもある)。161年、40歳の時、皇帝を継承する(~180年まで)。このとき、同じく先帝の養子で弟にあたるルキウス=ウェルスを皇帝と同じ権限を与えているので形の上ではローマで最初の二人皇帝制であった。
 ストア派の哲学者が皇帝になったと言うので「哲人皇帝」といわれた。自らも『自省録』という著作がある。同書は皇帝となってからも人間としての生き方を忘れず、たえず自省(みずからをかえりみること)を続けた彼の思索のあとを読み取ることができる。
 マルクス=アウレリウス=アントニヌスは五賢帝の最後の皇帝であるが、この頃から、東のパルチアの侵攻、さらに北のゲルマン人の侵攻が激しくなり、その対応に追われ、彼自ら出征を繰り返し、ドナウ川河畔で陣没した。また属州総督の反乱なども起こっており、決して何ごともなく安定した統治であったわけではなく、その死もゲルマン人との戦いの戦場における病死であった。後継者として実子のコンモドゥスを指名し、五賢帝の養子に継承させる形態が終わりを告げ、世襲制となった(従来も世襲が否定されていたわけではない)が、このコンモドゥス帝からはローマ帝国が衰退に向かいはじめたことが明らかになっていく。
 また同時代の人物としては、彼の侍医として知られる著名な医師ガレノスがいる。
 なお、同時代の後漢の正史である『後漢書』に「大秦王安敦」の使者と称する者が166年に日南郡(現在のベトナム)に来た、という記事があり、この大秦国はローマ帝国、安敦はマルクス=アウレリウス=アントニヌスと見られるが、このことはローマ側の記録には記載がなく、事実であるかどうか疑わしい。しかし、ローマと後漢の直接の交渉は無かったものの、この時代から陸上、海上ともに交易が盛んになったことはたしかなので、間接的な交渉はあったかもしれない。

パルティアとの戦い

 この頃東方ではパルティアが再びローマに反抗するようになりアルメニアに侵攻してきた。マルクス=アウレリウス=アントニヌス帝は同僚皇帝ルキウスに大軍を率いさせて討伐にあたった。ルキウスはシリアにとどまったが部下の将軍が奮戦し、165年にクテシフォンを占領、ローマの勝利に終わった。
疫病の流行 翌166年、ローマに凱旋した軍隊は多くの戦利品をもたらしたが、帰還した兵士が東方から疫病を持ち帰り、これが急速に広がってローマは恐慌に陥った。これは天然痘ともペストとも言われ、19世紀に近代歴史学の大家ニーブールがローマ帝国衰退の重大原因と主張したことがあったが、現在の研究では衰退に直接的な影響を与えるほどではなかったという見方が強い。しかし今回のパルティア戦争は勝利とはいえ、新たな領土を得られたわけではなく、おまけに疫病がもたらされたと言うことでローマ帝国と皇帝にとって消耗に終わったことは確かである。

マルコマンニ戦争

 ドナウ川流域に配属されていたローマ軍がパルティアとの戦争のため東方に移動して手薄になったすきをついて、166年末頃、ゲルマン系の諸部族がドナウ川を越えてローマ領属州パンノニア(現在のハンガリー)に侵攻してきた。その中心となっていた部族が現在のチェコのあたりにいたマルコマンニ人であったのでローマではこの戦争をマルコマンニ戦争と呼んでいる。侵入は撃退され、一時的な講和となったが、翌年には属州ダキアの金鉱地帯が襲撃された。168年、マルクス=アウレリウス=アントニヌス帝はルキウス帝とともにマルコマンニとの戦いに出発、北イタリアのアクィレイアに総司令部を置いた。しかし、北方諸民族の大侵入が開始され、ローマ軍は各所で敗北、やむなく皇帝二人はローマに帰還したが、途中の169年1月にルキウス帝が卒中のため38歳の若さで死去した。
 マルクス帝は軍隊を補充して再びローマを発ち、パンノニアで北方部族と激しい戦闘を繰り返した。このころゲルマン系部族の連合軍の動きは最高潮に達し、アルプスを突破してイタリア本土になだれ込み、さらにバルカン半島を南下したゲルマン軍はアテネを脅かした。このローマ帝国始まって以来の異民族の大襲来にローマは極度の不安に陥った。マルクス帝は各方面から侵攻するゲルマン部族軍に苦しめられたが、個別の講和を働きかけて彼ら諸部族を分断することに努め、172年からは形勢を逆転させた。なおも戦争は続いたが、ゲルマン諸部族の同盟が強固でなかったこともあってローマ軍が各個撃破をはかり、175年までに全面的な講和に持ち込んだ。
戦場に死す 177年、ゲルマン部族の反乱が再燃、帝は後継者に指名した息子のコンモドゥスを引き連れてドナウを越え、ゲルマン人の地に深く侵攻し占領地を広げていったが、180年3月17日ウィンドボナ(ウィーン)で死去した。父帝の死後、コンモドゥスはしばらく戦闘を続けたが、単独で戦争を終結させることを決心、将軍たちの反対を押し切って講和し、さっとローマに帰還した。コンモドゥスに戦争を続ける気力がなかったこともあるが、これによって平和が到来したのでローマの市民は大歓迎だった。ゲルマン人側もローマからの保証金などを受けとり、戦争を終結させることに同意した。こうして166~180年まで14年にわたって続いたマルコマンニ戦争は終わった。

参考 マルクス帝の人材登用

 ローマ帝国では元老院議員が世代交代しながら政治参加をはたし、一定の経歴を重ねて軍務に就くというシステムが維持されていた。しかし、マルクス=アウレリウス=アントニヌス帝の時代には相次ぐ対外戦争で将軍として軍務に就いた元老院議員が次々と戦死し、もはや旧来の人材登用システムでは危機を克服できないと考えられた。
(引用)マルクスの登用で戦争指導を行う職務に抜擢された人々の中には、属州出身者や騎士身分家系の出身者以外に、騎士身分から元老院議員身分に編入するという措置によって登用された者も目立つ。マルクス帝の伝記史料は、皇帝がずいぶん多くの人々を編入措置で元老院に入れたとはっきり記述している。
 騎士身分の公職には、ハドリアヌス帝時代に純粋な文官経歴が導入されていたが、主たる職務は武官としての仕事であり、アマチュア的な元老院議員に比してはるかに軍事の専門家であった。そのいわばプロフェッショナルな力をマルクスは元老院議員に昇格させて使ったのである。……
 このようにしてマルクスは、以前とは異なった、出自にとらわれぬ能力主義の原理を人材登用に導入し、帝国統治にプロフェッショナリズムを持ち込んだ。そして、その力で危機を乗り切ったのである。
 しかし、同時に、マルクスの措置は、元老院議員を基盤において成り立つ皇帝政治に、変革への重大な一歩をもたらした。三世紀に入るとマルクスが踏み出した一歩は加速して、騎士身分がその身分のままで帝国統治の重要職務を担うことが増加し、一方で元老院議員が皇帝の指導の下で第一の政治支配層として帝国統治の実際に携わるという皇帝政治の本質が失われていくようになる。対外的危機が深刻化してゆくにしたがって、軍事と民政の専門化はさらに進行した。やがて三世紀の末には、元老院議員階層に基盤をおくのではない、直属の騎士身分に支えられた皇帝の専制的体制――後期ローマ帝国の皇帝政治――が成立するのである。<南川高志『ローマ五賢帝』1998 初刊 2014 講談社学術新書で再刊 p.222-224>
※つまり、マルクス=アウレリウス=アントニヌス帝の人材登用の転換によって、元老院議員階層を基盤においた皇帝政治(前期帝政、つまり元首政)から、直属の騎士身分に支えられた皇帝の専制政治(後期帝政、つまり専制君主政)への変質が準備された、ということであろう。

Episode 賢帝の唯一の失政

 マルクス=アウレリウス=アントニヌスは五賢帝の一人として、人民に寛容と慈愛を示し、善政を施した。しかし、それまでは前皇帝が人物本位に人物を選んで養子にして次の皇帝に継承されるということが続いていたが、彼は実子のコンモドゥスを後継者とした。コンモドゥスは、マキァヴェリの『君主論』によると、「獣のように残忍な心の持ち主だった。だから人民に対して強欲ぶりをいかんなく発揮しようとした。軍隊を手なずけ、彼らに放埒のかぎりを許した。ほかにも、皇帝の尊厳などわきまえず、しばしば格闘場におりて、剣闘士あいてに戦い、およそ皇帝の品性にそぐわない数々の下劣な行為に走った。」こうして憎しみにあい、見くびられて、陰謀にあって殺された。<マキアヴェッリ『君主論』1515 池田廉訳 中公クラシックス p.150>
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南川高志
『ローマ五賢帝――「輝ける世紀」の虚像と実像』
1998 初刊 2014 講談社学術文庫で再刊

自省録

ストア派の哲学者であったローマ皇帝マルクス=アウレリウス=アントニヌスの著作。自らの生き方を内省し、ギリシア語で著述した。

 五賢帝の最後の一人、マルクス=アウレリウス=アントニヌスが、対ゲルマン戦役の陣中で書いた書物で、ストア派の哲学者でもあった彼が、人間として、あるいは皇帝という公人としていかにあるべきか、自らを省みてギリシア語で書いた。ラテン語ではなく、ギリシア語を用いたところにストア哲学に傾倒していたことが現れている。
 権力の極みにあったローマ帝国の皇帝が、その内面で何を自省していたのか、興味深いところである。そのよりどころはヘレニズム時代のゼノンに始まるストア学派の、自然(宇宙)の中にあって、理性(ロゴス)にもとづく禁欲的な生き方を守り、心の平安(アタラキシア)を得ようという理念であった。
 以下、拾い読みで彼がどんなことを言っているのか、見てみよう。なお『自省録』には岩波文庫版の神谷恵美子訳と、講談社学術文庫版の鈴木照雄訳があるが、後者に依った。自省の書なので、文中で「おまえ」と言っているのは自分に言い聞かせているわけである。<マルクス=アウレリウス『自省録』鈴木照雄訳 2006 講談社学術文庫>

『自省録』より

(引用)  ヒッポクラテスは多くの病気を治療したが、やがて彼自身病を得て死んでいった。(中略)アレクサンドロスポンペイウス、ガイウス・カエサルは数多くの都をあのように次から次へ完膚なきまでに攻略し、また戦列にあっては何万という騎兵や歩兵を殺戮しながら、やがて彼ら自身もいつの日かこの世を去って行った。ヘラクレイトスは宇宙焼尽についてあれほどの自然学的研究を積みながら、自身は体内の水腫に罹り牛糞にまみれて死んでいった。またデモクリトスは虱の犠牲となり、ソクラテスまた別の虱の犠牲となって命を落とした。
 これらはいったい何なのか。(人生なる航海に)おまえは上船し、そして着港したということである。さあ、下船するがいい。もし行く手が現世と異なるものであるならば、そこでも神々が在さぬわけがない。また、無感覚の状態にあるというならば、もはや苦楽に翻弄され、主たる者が仕える者より優れているのに比例して劣っているかの(肉体の)器に仕えることはなくなるであろう。<第三巻 三 p.39>
 「皇帝」化させられてしまわぬよう、その色に染められきることのなきよう心せよ。これは現に起こることであろうから。さればよく気をつけ、おまえを単純素朴にして善良な、汚れなき、謹厳にして虚飾なき、正義の友にして敬神の、親愛の情に満てる、己の義務に強力有能な者であるようにせよ。哲学がおまえを形作ろうと欲したごとき人物で変わらずあるよう競って励め。神々を畏敬し人々の安泰を計れ。人生は短い。この地上の生の唯一つの成果、それは敬虔な心構えと公共を想う行為である。<第六巻 20 p.101>
 おまえ自身が国家公共の組織の構成要因であるごとく、おまえのすべての行為もまた公共の生活の構成要素たらしめよ。およそ国家公共の目的に直接的と遠隔的とを問わず関連をもたぬごとき行為は、おまえの生活を分裂させそれの一体であることを許さず内部分裂の因となるものである。あたかも、共同体において自己に関わるかぎりの職分の面でかかる協調から離反する者のなすように。<第九巻 23 p.165>
 これらの引用の以外にも、いたるところに人間の生の栄華や栄耀がいかに空しいものであるかを自覚せよという自戒の言葉を見ることが出来る。訳者が解説で述べているように、「硬質の無常観」に覆われている。このような内面の自省を文章にしている権力者が、しかも2世紀に存在してたことは驚きである。また引用文にあるように、「公共の安全」を使命とする自覚がこの古代統治者にあったことも意外である。古代中国の帝王の、儒教的、あるいは道教的な統治観にも共通することかも知れない。
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マルクス=アウレリウス
鈴木照雄訳
『自省録』
2006 講談社学術文庫