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フス

15世紀のベーメンの宗教改革の先駆者。コンスタンツ公会議で異端とされ、1415年に火刑となった。その支持者はベーメンでフス戦争と言われる農民戦争を起こした。

フスの火刑
火刑にされるフス。頭には悪魔を描いた帽子をかぶらされている。
 14世紀末のローマ=カトリック教会は、1378年に始まる教会大分裂という混乱の中で、教会や修道院は封建領主として富を重ね、聖職者の腐敗も目立ってきて教皇権の衰退が明らかとなってきた。そのようなとき、神聖ローマ帝国の領邦の一つであったベーメン(ボヘミア、現在のチェコ)で、カトリック教会に対する批判を公然と行う聖職者が現れた。それがフスである。
 ヤン=フスはプラハ大学で神学を学び、1398年から教授、1401年に哲学部長、1403年には学長となった。イギリスで教会を批判し、聖書による信仰を回復することを説いたウィクリフの教説を知ってその影響を受け、カトリック教会の世俗化を厳しく批判するようになり、1402年からチェコ語で説教をする余蘊あった。フスの説教は、ベーメンの貴族や民衆に広く受け容れられ、影響力を持つようになった。1412年、ローマ教皇の贖宥状の発売を批判すると、ついに破門される。1414年に皇帝ジギスムントの召集したコンスタンツ公会議に召還されると、フスは自説を主張する機会と考えてそれに応じたが、審問では一切の弁明も許されず、一方的に危険な異端の扇動者であると断じられ、翌1415年7月6日、火刑に処せられた。 → 宗教裁判

異端者から民族の英雄へ

 フスの思想は、教会の誤りを正し、聖書に基づく信仰に戻ることに主眼があり、ローマ教皇の権威を否定したのでもなく、またウィクリフの化体説批判(聖餐の秘蹟を否定した)には同調していなかったので、急進的なものではなかったが、コンスタンツ公会議では危険思想の烙印を押されることとなった。フスの思想はむしろその処刑後、封建領主としての教会に苦しめられていた民衆の抑圧からの解放、またドイツ人に抑えられていたチェック人の自由を求める民族的自覚と結びつき、フス戦争(1419~36年)といわれる農民戦争(一揆)となって爆発する。

フスの説教

(引用)「フスの説教の中身は、残された原稿からほぼその全容を知ることが出来る。彼は聴衆に向かって説いた。現在の教会の悲惨な状態は、聖職者の不道徳に原因がある。その人が本当に聖職者といえるかどうかは、彼が本当に神の言葉を説いているかどうかで判断すべきであり、教皇や司教が彼を承認したかどうかは重要ではない。利益ばかり追い求め、教会で商売まがいの活動をしている司祭は、本当の司祭ではない。もったいぶった長たらしい祈りを唱えつつ、キリストを冒涜するようなことを平気でしでかすような修道士は、本当の修道士ではない。この世に生きる人々は、どのような身分であるかにかかわらず、神から与えられた職務を守って正しい生活を送り、悪がはびこらないよう十分に注意しなければならない。この世の終わりに皆が天国に行けるようにするには、それ以外に方法はないのだ、と。」<薩摩秀登『物語チェコの歴史』2006 中公新書>

Episode フスの名誉回復

 フス戦争がフス派の敗北に終わり、三十年戦争もフス派とプロテスタントの敗北に終わった後、チェコではカトリックが優勢となり、ヤン=フスの名も忘れられていった。長い忘却の期間の後、19世紀になってチェック人の民族運動が活発になると、にわかにフスとその時代がチェック人の誇りとする歴史として意識されるようになった。スメタナの組曲『わが祖国』の5曲目もフス派の歌ったという“ターボル”という歌をモチーフに作曲されいる。また1915年7月6日にはフスの没後500年を記念したフスとフス派の群像の除幕式がプラハの旧市街ひろばで行われた。そして冷戦が終わった1990年にはローマ教皇ヨハネ=パウロ2世はプラハを訪れてフスの教会改革者としての再評価についてふれ、1999年にはヴァチカンで“フスに課せられた過酷な死と、その後に生じた紛争に対して、深い哀惜の意を表明する”との声明を読み上げた。フス裁判が誤りであったという断定は避けながら、フスは580余年を経て事実上の名誉回復をとげたと言うことができる。<薩摩秀登『物語チェコの歴史』2006 中公新書 p.99-102>
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5章3節 カ.教皇権の衰退
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薩摩秀登
『物語チェコの歴史』
2006 中公新書