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アイルランド

大ブリテン島の西側にある大きな島。ケルト系文化とカトリック信仰という独自の文化と有しているが、長くとなりのイングランドの支配を受け、1649年のクロムウェルによる征服以来はその植民地とされた。18世紀以降、激しい独立運動が展開されるようになり、1922年に自治を獲得したが、その北部はイギリスに留まり、分裂した状態となっている。北アイルランドを除いて、1949年にアイルランド共和国となった。

 アイルランドには旧石器時代の遺跡もあるが、前4000年ごろには農耕・牧畜が行われるようになっていた。その島に鉄器文明をもたらしたケルト人は、前5世紀ごろ、大陸から渡来したらしい。彼らはドルイドという司祭を中心とした独自の文化をもつ部族社会を形成した。ローマ人がアイルランドのケルト人をゲール人と呼んだが、直接支配を及ぼすことはなかった。その後もアイルランドの先住民族をゲール人、その言語をゲール語と呼んでいる。 → クロムウェルのアイルランド征服  アイルランド自由国  エール  アイルランド共和国

アイルランドとカトリック教会

聖パトリックの布教 アイルランドはカトリック信仰が根強く、現在でもイングランドの新教徒(国教会)とは対立している。アイルランドに正統派カトリック教会のキリスト教を伝えたのは、5世紀初頭から中頃、聖パトリックによってであった。聖パトリックはなかば伝説的な人物で正確なところは判らないが、ブリテン島西部で生まれ、奴隷としてアイルランドに連れ去られ、羊の番をしながら6年間を過ごし、脱走してブリテン島に帰ったという。しかしその後、今度は自らの意思でアイルランドに神の福音を伝えるために渡り、北東部のアーマーを中心に布教活動を続け、ローマ教会からアイルランドの司教として認められたという。聖パトリックは今でもアイルランドの守護聖人とされ、彼を偲ぶ3月17日はセント・パトリック・デーといわれ、現在もアイルランドの国民的祝日とされている。
アイルランドの修道院 5世紀末に聖パトリックの弟子の一人、コーマックが修道院長となり、それ以後2世紀にわたってアーマー教会の長は修道院長と司教を兼ねることとなった。西ヨーロッパのキリスト教国のなかでアイルランドは修道院が教会を支配した唯一の国となった。その後もアイルランドでは独自の修道院文化が発達し、古典の筆写や研究が盛んに行われた。またアイルランドには、各地に独特の円環をもつ石造の十字架が多く残されているのも修道院文化の遺物である。<波多野裕蔵『物語アイルランドの歴史』1994 中公新書 18-24>

ヴァイキングの襲来

 アイルランドは、ブリテン島と違い、ローマの支配も直接は及ばず、ゲルマン民族の大移動期の侵入も受けなかった。そのため独自のケルト文化が維持されたといえる。しかし、9~11世紀にはしばしばヴァイキングと言われたノルマン人の侵攻を受け、一時はダブリンにノルマン人の支配が成立したが、彼らは沿岸部を一時的に支配して交易を行ったが、領域的な支配は行われず、イングランドと異なりノルマン人の王朝が永続することはなかった。

アングロ=サクソン人の移住

 12世紀後半、イングランド及びウェールズから、アングロ=サクソン人がアイルランドに移住するようになった。彼らは先住民のケルト系ゲール人の土地を奪い、次第に領主化していった。1171年にイングランドのプランタジネット朝初代のヘンリ2世は、兵を率いてアイルランドに上陸して、主権を主張してアングロ=サクソン系の領主の土地を安堵し、臣従させた。ヘンリ2世の後のジョン王もアイルランドへの宗主権を主張し、ダブリンに官吏を置いて支配した。
 12~13世紀はアイルランドのイギリス化が進んだが、14世紀にはゲール系勢力が巻き返し、イギリス王権の弱体化もあって、アイルランドは、アングロ=ノルマン系の支配地域とゲール人勢力の支配する地域が拮抗する状態となった。つまり、イングランドの勢力はアイルランドを完全に支配することはできないでいた。特に百年戦争とバラ戦争が続く中、イングランドの王権はアイルランドに及ばなくなって、アングロ系、ゲール系のいずれにも有力な氏族が成長した。

ヘンリ8世のアイルランド支配

 イギリス王は形式的にはアイルランド太守としてローマ教皇からアイルランドの支配をまかれているという建前であったが、宗教改革を断行してローマ教皇と関係を断ったヘンリ8世は1541年、みずからをアイルランド国王とすることを、アイルランド議会で承認させた。こうして形の上でアイルランドは独立した国であるがイングランドと同じテューダー朝の国王の支配を受けるという、同君連合の形態とナリ、それとともにイングランドから盛んに移民が行われた。しかし、アイルランドには国教会はなかなか浸透せず、宗教面ではカトリックが依然として有力なまま続いていた。


クロムウェルのアイルランド征服

ピューリタン革命の主導権を握ったクロムウェルは王党派=カトリックの討伐を口実にアイルランドを征服し、実質的植民地化を行った。

 アイルランドが大きな転機を迎えたのは、イングランドのピューリタン革命によって権力を握ったクロムウェルが、1649年にアイルランドが王党派の拠点になっているとの口実でアイルランドを征服し、植民地としたことであった。
 クロムウェルは、1649年、カトリック教徒が多く王党派の拠点となっているとしてアイルランドを征服した。6月15日、議会はクロムウェルをアイルランド総督に任命。アイルランドでは国王軍のオーモンド侯がカトリック軍と同盟、反議会の活動を展開していた。クロムウェルは8月13日にブリストルを出航、15日ダブリンに上陸し、12000名の新着の部隊と先任の5000名の部隊を合流させ、9月ドローエダ、10月ウェックスフォードなどを攻略、その間ミル-マウントの虐殺、寺院の焼き討ち、婦女子の乗ったボートを沈めるなど残虐行為を行った。クロムウェルはそれを「神のみちびき」と議会に報告している。50年5月26日「クロムウェルの恨み」を残し帰国した。その後、アイルランドでは、イギリスからの独立運動が激しく展開されることとなる。<浜林正夫『イギリス市民革命史』P.199-201>

ウィリアム3世のアイルランド征服

 1688年、カトリック復興をもくろむ国王ジェームズ2世に反発した議会が、プロテスタントの擁護者としてオランダ総督(事実上のオランダ国王ともいえる)オラニエ公ウィレム3世を迎え入れ、ジェームズはフランスに亡命した。これが名誉革命である。オランダ軍とともに上陸してイギリス(厳密にはイングランド)国王となったウィリアム3世を、カトリック勢力の強いアイルランドでは国王とは認めなかった。この情勢を見てジェームズはアイルランドに赴き、反ウィリアム勢力を結集して挙兵した。イギリス国王となったウィリアム3世はオランダ軍を率いてアイルランドに出兵し、1690年7月のボイン川の戦いでジェームズとカトリック軍を破った。これは、クロムウェルから始まるイングランドのアイルランド征服が完成したことを意味している。これ以後、プロテスタントによるアイルランド支配が進み、カトリック地主の土地は取り上げられて、差別されていく。

イングランドによる併合

 18世紀後半にはアメリカ合衆国の独立、フランス革命の影響を受けて、アイルランドでも独立運動が始まった。イギリス政府は独立運動を抑えるためにアイルランドの併合に動き、1800年に合同法を成立させ、1801年にアイルランド併合を実行し、それによって正式国号は大ブリテンおよびアイルランド連合王国となった。

アイルランド問題

その結果、イギリスでは審査法によってカトリック教徒は公職に就くことができなかったため、アイルランドの多くのカトリック教徒は差別され、イギリスの支配に対する不満が強くなり、19世紀にはアイルランド独立運動はアイルランド問題としてイギリス本国でも深刻に受け止められるようになった。イギリスの「喉に刺さったトゲ」といわれた20世紀のアイルランド問題はさらに激しくなっていく。

アイルランド自由国

1922年、イギリスはロイド=ジョージ内閣が北アイルランドを除きアイルランドの自治国を認めた。それによって成立した国。

 1922年、アイルランドはイギリスのロイド=ジョージ挙国一致内閣によって自治が認められて、イギリス連邦を構成する自治国となった。しかし、プロテスタントの多い北アイルランド(アルスター地方)は、アイルランド自由国に加わらず、イギリスに残った。 → 戦間期のイギリス
 その前年の1921年、イギリスから提示されたこの分離自治をめぐってシン=フェイン党は分裂、あくまでアイルランド全島の独立を目指すグループと北アイルランドを分離することを認めるグループで内戦となったが、結局後者が勝利して、北アイルランド6州を除く26州がアイルランド自由国となり、イギリスの自治領となった。1931年のウェストミンスター憲章でアイルランド自由国もイギリス連邦を構成する独立国となった。
 しかし、完全独立派はデ=ヴァレラらはアイルランド共和党を結成、ウェストミンスター憲章を認めず、抵抗を続けた。次第に党勢を強めてシン=フェイン党にかわって1937年には選挙で勝利した。

エール/アイレ/エーレ

1937年にアイルランドの政権を握ったデ=ヴァレラが憲法を制定し、国名をゲール語でエールとした。

 1937年にアイルランド自由国の選挙で勝利したデ=ヴァレラは、独立国家であることを宣言し、新憲法を制定(38年発効)して国号をエールとした。エール Eire はアイレまたはエーレとも表記し、ゲール語(アイルランドの固有の言語)でアイルランドのことを意味する。従って国名を改めたわけではなく、憲法でも英語表記ではアイルランドとするとされている。また独立国家としたことで、イギリス国王の王冠への忠誠を廃止を決めたので、事実上イギリス連邦から脱退することとなった。ただし、正式な脱退は第二次世界大戦後の1949年のことで、そのときに、国号をアイルランド共和国としたが、エール(アイレ)も併用されている。

アイルランド共和国

1949年、イギリス連邦から脱退し、国号をアイルランド共和国とする。北部のアルスターを除くカトリック地域を統治する。

アイルランド国旗
アイルランド国旗:緑はカトリック、オレンジはプロテスタント、白は両者の和解と友愛を象徴する。
 北アイルランドを除くアイルランドが、1949年にイギリス連邦から正式に離脱し、同時に国号をアイルランド共和国とした。ゲール語表記であるエール(アイレ)も残されている。アイルランド島はイギリスとは異なるケルト人を主体とした、カトリックが大勢を占める地域であるが、クロムウェルのアイルランド征服以来、長期にわたってイギリス人の支配を受けてきた。
 19世紀以来、イギリスにとってのいわゆるアイルランド問題が続き、シン=フェイン党の自治獲得の戦いが展開され、ようやく1922年に北アイルランド(アルスター地方)を除いてアイルランド自由国が成立した。1937年からはアイルランド共和党のデ=ヴァレラ首相に率いられ、憲法を制定して国号をエール(ゲール語=アイルランド語でアイルランドを意味する)と称した。
 エールは反英的な立場から第二次世界大戦中は中立の立場をとった。また戦後はNATOにも加盟せず独自路線をとり、1949年にイギリス連邦から脱退するとともに国号をアイルランド共和国とした。現在はイギリスとの関係も改善され、1973年にはECに加盟した(拡大EC)。しかし、慢性的な財政不安を抱えている。
 → 北アイルランド紛争 
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ノートの参照
5章3節 ク.百年戦争とバラ戦争
9章1節 イ.イギリス革命
第15章2節 ウ.西欧諸国の停滞
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波多野裕造
『物語アイルランドの歴史』
1994 中公新書