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コンゴ王国

アフリカ中央部、コンゴ川流域の広大な熱帯性雨林の地域。14~19世紀にコンゴ王国が栄えた。

ポルトガルの進出

 ポルトガルジョアン2世の時、航海者ディオゴ=カーンはアフリカ西海岸を南下し、一つの大河に行き着き、持参した“パドローネス”といわれる記念の石柱を建てた。現地の住民がマニ・コンゴ川と呼んでいたこの川をリオ・ド・パドロンと命名したが、後になってポルトガル人はそれをザイール川と改めた。それは「河」を意味するエンザディという土地の言葉のくずれたものである。それが現在のコンゴ川である。ポルトガルはローマ教皇からキリスト教を布教することを条件として、金と黒人奴隷を“商品”とする貿易を開始した。

Episode マニ=コンゴからの大使

 1485年にカーンは第2回の航海を行い、再びコンゴ川を約100マイルほど遡った。次いでカーンはポルトガルへの帰還に際し、原住民の首長カスータをマニ・コンゴからの大使として連れていった。カーンの記録はほとんど無く(ポルトガルはアフリカに関する情報を秘密にしていたので)知られることは少ないが、「カスータがどうなったかの記録はなかなか面白い。この原住民の酋長はその仲間と共にキリスト教の教育を受け、盛大な儀式でジョアン・ダ・シルヴァなる洗礼名を授かり、ポルトガル語を教え込まれた。1490年頃、彼はジョアン2世の大使ゴンサロ=デ=ソウサの一行と共にコンゴに送り還され、そしてこの使節団は《コンゴ》という文明と未開が混在したキリスト教国を創成した。このコンゴ王国はポルトガルの強力な影響下で16世紀一杯続くことになる。」<ペンローズ『大航海時代』荒尾克己訳 筑摩書房 p.56-57>

キリスト教国「コンゴ王国」

 1490~91年のポルトガルのコンゴへの派遣は、この地域の支配者達のキリスト教への改宗という結果をもたらし、コンゴ王国の国王と女王は当時のポルトガル王と女王の名に倣ってジョアンとレオノールと名乗った。この国の都サン・サルヴァドールでは怪しげなキリスト教が栄え、リスボンと極めて活発な交流が行われた。沢山の若いコンゴ人が教育を受けるべくポルトガルに送られ、ジョアン王の息子のアフォンソ1世は臣下の族長達に公・侯・伯などの爵位を与え、ポルトガルの大部な法律を読破し、《欧化》を図った。しかし、その領国ではキリスト教は遂に表面以下にまで浸透することはなかった。「ポルトガル人の犯した最大の失敗は、大仕掛けな洗礼さえ続けていれば信心深い住民が出来上がるものと思いこんでいたことである。」<ペンローズ『大航海時代』荒尾克己訳 筑摩書房 p.158>

ポルトガルの後退

 ポルトガル人はコンゴ川河口に商館を設け、原住民に重税をかけ、鉱山開発や奥地開発を進めようとしたが、原住民の断乎たる反抗に遭遇した。奥地ではジャッガ族の襲撃が繰り返され、恐怖の的となった。そこで1560年代から、セバスチャン王はコンゴ王国の南部の海岸地帯のアンゴラ征服を図ることとなった。 → ポルトガルのアフリカ植民地支配

ベルギーの植民地支配

 替わって19世紀後半、帝国主義列強によるアフリカ分割が進み、コンゴにはベルギーレオポルド2世が進出し、1885年にコンゴ自由国を樹立、過酷な植民地支配を行った。 → ベルギー領コンゴ コンゴ民主共和国
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ノートの参照
第5章3節 ウ.アフリカのイスラーム化