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植民地(近世以降)

本国以外の地域に自国民を入植させ、現地の資源を収奪する支配。16世紀、大航海時代以降のヨーロッパ諸国がアフリカ、アジア、アメリカ新大陸に進出、17世紀以降、本格的な植民地獲得競争に乗り出した。重商主義経済政策では植民地は本国の経済を支え、その成長の基礎となった。18世紀の産業革命以降は資本主義諸国にとって市場・原料供給地としての植民地の価値が高まると植民地をめぐる対立は更に激しくなる。植民地の支配を正当とする考えが植民地主義である。

 植民は本国から離れた地域に移住して集団的に定住し、新たな生活の基盤とすると共に、本国にたいしても何らかの利益を提供することであるが、それ自体は古代の地中海世界のギリシア人やフェニキア人の都市国家や、ローマ帝国などでも行われていた。世界史上「植民地」といわれて問題にあるのは、通常は15世紀末以降のヨーロッパ諸国による、アフリカやアジア、あるいはアメリカ新大陸に対する国家的な植民と、それに伴う現地人に対する支配のことである。それはポルトガル、スペインに始まり、16世紀に「太陽の沈まぬ国」と言われたスペインを典型例として、19世紀のイギリス「大英帝国」が植民地帝国として群を抜いている。そして17~18世紀はイギリス、フランス、オランダなどが激しい植民地争奪戦を展開する。18~19世紀は資本主義国による植民地支配が拡大し、ついに世界分割が飽和点に達し、20世紀前半までに帝国主義国間の対立から、二つの世界戦争が起こった。この植民地支配に対して、被支配民族が反植民地闘争に立ち上がり、独立を実現してゆき、20世紀後半には植民地はほぼ姿を消した。しかし、一方で新植民地主義という姿に変わって始まった、あらたな抑圧の形態が問題になっている。
 「植民地」のあり方に段階的な違いがあることが重要である。

絶対主義段階の植民地

 15~16世紀の絶対王制下の諸国の植民地支配は、重商主義の経済政策に基づき、国家=宮廷の富を増すための、香料や宝石などの奢侈品、綿織物や生糸など特産品の獲得、金銀など地下資源の収奪が主な目的であった。この段階から、植民地の獲得を競う国の間で、現地の住民は一切無視して、その領域を勝手に調整するという植民地分界線が設置された。その最初が、ポルトガル・スペイン間の教皇子午線トルデシリャス条約である。
 その結果、ポルトガルはアフリカ・インド・東南アジアを、スペインはアメリカ新大陸をそれぞれ勢力圏として分割(ブラジルはポルトガル領)されたが、この段階ではポルトガルの主眼は香辛料貿易におかれ、スペインの主眼はなどの資源を得ることであった。ポルトガルはインドや中国に貿易拠点を設けて香辛料やその他の特産品を獲得して本国に持ち帰ることが狙いであったので、植民地を領域として獲得する動きは少なかった。一方スペインは、ラテンアメリカ地域でまもなく砂糖やタバコ、綿花などのプランテーション経営を開始、その中での過酷な労働によってインディオの人口が激減、代わりの労働力としてアフリカから黒人奴隷を移送するという、世界史の中での大きな転換がもたらされた。
 17世紀に入ると、スペイン・ポルトガルは次第に衰え、代わってオランダ、イギリス、フランスが海外進出を果たし、本格的な植民地獲得競争の時代へと移っていく。

コルベールの植民地政策

 17世紀のヨーロッパ列強はいずれも植民地獲得に乗り出した。その中で典型的な例がフランスで、ルイ14世の時代に財務長官を務めたコルベールは、1664年フランス東インド会社フランス西インド会社を設立、前者にはアフリカ・インド・東南アジア・中国を管轄させ、後者にはアメリカ新大陸・西インド諸島を管轄させた。この段階ではフランスにとって排除すべき競争相手はオランダであった。コルベールの死後は、ルイ14世によるヨーロッパでの領土拡張戦争と、アメリカ大陸・インドにおけるイギリスとの植民地抗争が同時に展開されるようになる。

植民地の独立

 絶対王政時代の植民地は、本国の産業に従属させられ、独自の利益の追求は許されなかった。18世紀後半になると、植民地に入植した白人たちの中から、独立要求が強まる。植民地独立を最初に実現させたのが、1776年に独立宣言を発したアメリカ合衆国だった。アメリカ独立革命は、諸君地の独立とともに市民が共和政を樹立するという市民革命でもあった。
 18世紀を通じて人権思想、自由主義が起こってくる中で、1789年にフランス革命が始まり、ヨーロッパの絶対王政国家はともに大きな動揺に陥った。スペイン・ポルトガルといった本国の衰退という情勢変化を受けて、アメリカ合衆国の独立に刺激され、19世紀初頭からラテンアメリカ諸国の独立が続くこととなる。その嚆矢となったのが1804年のハイチの独立であった。

資本主義成立段階の植民地

 18世紀中ごろに始まる産業革命を19世紀前半までに達成したイギリスを先頭に資本主義社会が形成されるすると、新たに市場及び原料供給地としての植民地の意義が重大になってきた。植民地に対しては本国の工業の原料の安価な供給地され、特定の農作物の生産に特化したプランテーションが本国人によって経営され、現地人はその労働力とされると共に、本国の工業製品の市場として二重に収奪された。このような中で植民地の人口減少、貧困が続き、たびたび反乱が起きるようになった。イギリスなどでは植民地の維持や拡大に伴う財政支出や軍事支出が過大になることを恐れ「植民地不要論」が台頭し、領土化よりもより安全で利益の大きい他地域との自由貿易を拡大していく方向への転換が見られた。

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帝国主義段階の植民地/植民地主義

帝国主義諸国は自国の高度な資本主義を支える資源供給地・市場および、資本投下先として植民地を支配した。また国内の社会矛盾を植民地支配によって解消する、植民地主義をとった。

植民地不要論から植民地主義へ

 しかし19世紀末から20世紀には、資本主義がさらに膨張して帝国主義段階にはいると、本国内の過剰資本の投資先、より安価な労働力の供給先、そして石炭や石油などエネルギー源の確保などの目的で各国は再び植民地争奪を開始した。イギリスなどでも、植民地は国内の社会問題(農民の貧困、労働者と資本家の対立など)を解決する上で必要であるという「植民地主義」(コロニアリズム)が主流となった。日本が中国大陸に進出し、朝鮮・満州を植民地化し、その維持を「生命線」として守ることを国家命題にしたのもその例である。

帝国主義段階の植民地

 帝国主義段階では、世界の一体化が急速に進み、大陸における鉄道網の建設、海上における蒸気船の実用化(1900年頃に、帆船よりも蒸気船の数が上回った)、電信の普及などによって世界を距離的に縮めることとなった。しかし、そのことは工業化を達成し、植民地を持つっている8つの国―イギリス・フランス・ドイツ・イタリア・ロシア・ベルギー・アメリカ・日本―が植民地をより効率よく支配することを可能にし、植民地として搾取される側はモノカルチャー化のもとで貧困にさらされるという格差を決定的に拡大し、世界は二極化していった。
 そのような中で、白人の優越と有色人種の劣等を民族の持っている特性と考える人種差別観(ダーウィンの進化論を人間社会に当てはめて人種の優劣を論じる社会ダーヴィニズムの影響を受けている)が根強くなっていく。特に列強によるアフリカ分割においてはそのような観点から進められ、1884~85年のベルリン会議は列強が分割の調停とルール化をはかったが、それはアフリカの民衆のあずかり知らぬところで進められた。

世界分割の最終段階

 さらに20世紀にはいると、植民地分割は最終段階に達し、もはや地球上には植民地として条件の良いところは残っておらず、他国の植民地を奪い取るしか拡張の方法はなくなった。この植民地囲い込み競争では、先行していたイギリス・フランス・アメリカに対して、後発組であったドイツ・イタリア・日本が挑むという構図の植民地争奪の争いが始まる。ロシアは植民地と言うより、東欧や中央アジア、東アジアという隣接する地域に勢力圏をのばした。アジアでは急速に資本主義下を遂げた日本が、清と戦い、台湾・朝鮮などを植民地化していった。列強による中国分割は、租借地の獲得という方式により実質的植民地化に向かった。最後に残された太平洋の諸島地域に対しても20世紀初めまでに分割がなされた。

参考 最近の植民地論

 最近の高校教科書では帝国主義を、従来のような独占資本主義の形成という説明からだけではなく、多角的に記述するようになっている。それは植民地に対する説明にも現れている。現行の帝国書院『新詳世界史B』p.244には、欄外の注<視点をかえて>に「植民地研究の諸潮流:収奪論と近代化論」として取り上げている。
(引用)第二次世界大戦後の歴史学では、宗主国による植民地の搾取を強調する収奪論が主流だった。しかし1980年代に入ると、韓国や台湾などの経済発展を受けて、その発展の一因を植民地時代に求める植民地近代化論が現れた。それによれば、宗主国資本による工業化の開始、学校、職場における先住民の規律化と技能修得、さらに徴税制度の整備などが、独立後に近代社会が成立する基盤になったという。一方の収奪論者は、これらの施策は搾取の手段だったと反論し、近代化論は植民地主義の正当化につながると主張した。学問の発展には論争が必要である。実際、両者間の論争を通じて、例えば植民地時代の朝鮮半島で建設された鉄道施設の多くは、朝鮮戦争時に破壊されたため経済発展にほとんど貢献しなかったことなど、新たな知見が得られるようになった。<帝国書院『新詳世界史B』p.244>
 ここで近代化論といわれているのは、次項の新植民地主義に通じることであるが、「植民地支配も良いことがあった」式の断定ではなく、本質と側面を見きわめて考えなければならないと思う。

二つの大戦と植民地の独立

 これらの帝国主義諸国が、複雑に秘密外交を重ねながら、利害の調整に失敗して二つの世界大戦が続くこととなった。この間、多くの植民地は、第一次世界大戦後の民族自決の大きな流れ、第二次世界大戦後の民族主義の高まりの中で多くが独立を達成していった。その最も象徴的な出来事が、1947年のインドの独立であろう。しかしインドの独立といっても本来のインドとしてではなく、インドとパキスタンへの分離独立であったところに、植民地独立のかかえる深刻な問題を見ることができる。また東西冷戦がそのまま影響を及ぼし、日本の植民地支配から解放された朝鮮が南北分断された形となったことは真の独立とは言えないと言う問題もある。それでも1960年のアフリカの年でのアフリカ諸国の独立に続き、1970年代までにはほとんどの植民地が独立を達成した。ただ、特殊な事情から、自治領としてとどまっているところもある。

新たな植民地問題

 以上のように、重商主義段階・資本主義段階・帝国主義段階で植民地経営の意義が異なっており、また本国の植民地政策の違いなど、植民地問題はバリエーションが多いが、支配される植民地側からみれば、人格的、経済的、政治的な権利と自由を奪われた抑圧体制であることには変わりはない。被支配民族による植民地支配に対する抵抗運動と独立へと向かう大きな流れが20世紀後半の最も重要な動きとなる。

新植民地主義/ネオ=コロニアリズム

第二次世界大戦後に独立を達成した旧植民地地域に対し、経済援助などを通じて新たな支配を再現しようとする動き。旧植民地への支配を美化し、積極的に評価しようという動きとともに、現在も盛んになっている。

 第二次世界大戦の後の1950年代~60年代にアジア諸国やアフリカ諸国の独立したことによって植民地問題は終わりを告げ、現在は旧来の意味の植民地はほとんど姿を消し、「植民地主義」が否定されたかに見える。しかし、南北問題とか南南問題という形で旧植民地国の開発の遅れや経済不安、財政不安、民族対立からくる政治不安が続いており、先進国が保護や援助という形で間接的な支配を維持しようという「新植民地主義」(ネオ=コロニアリズム)が台頭しており、旧植民地側は警戒を呼びかけている。
 新植民地主義とは、第二次世界大戦後に多くの植民地が独立を達成するという情勢に応じて、旧植民地支配国側に起こってきた新しい考え方で、発展途上国に対して従来の直接的な支配にではなく、政治的には独立を認めながら経済的な支援や軍事同盟などを通じて関係を維持し、実質的な支配を続けようとする思想である。その背景には国際的資本(多国籍企業)が、発展途上国の資源を確保し、また市場を拡大する意図があった。1950年~60年代のアジア・アフリカの民族運動は、このような新植民地主義に対する反対運動として継承された。また、先進工業国と発展途上国間の格差の広がりに伴う問題は、南北問題として広く認識されるようになった。

「新植民地主義」の危険性

 植民地支配下で開発が進んだこと、教育が普及したことなどの側面を取り上げて、それを正当化する議論も新植民地主義の一つである。例えば、日本の朝鮮・台湾の植民地支配、あるいは東南アジアでの軍政によって、それらの地域は近代化を遂げるという「恩恵」を受けたのだという議論を最近耳にすることが多いが、世界史を謙虚に理解すれば、それらが事実として間違った議論であることは明らかである。過去の植民地支配を美化するという「新植民地主義」にも十分注意しなければならない。

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