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抗日民族統一戦線

日本の侵略に対する中国の諸勢力の統一運動。共産党の八・一宣言、張学良が蔣介石を軟禁した西安事件を経て合意が生まれ、1937年の日中戦争勃発によって成立した。

 反ファシズム民族統一戦線(人民戦線)は、1935年にコミンテルン第7回大会で、それまでの共産党を唯一の解放勢力としてブルジョア権力と戦うという基本路線を、ファシズムの台頭と戦うためには幅広くブルジョア民主主義勢力とも共闘する必要があるという方針転換を決めたことによって採用されるようになったものであり、ヨーロッパにおいてもナチスの台頭に抵抗するフランス、スペインなどで現れた。
 中国における民族統一戦線は、1931年の満州事変に始まる日本の中国への侵出という帝国主義侵略を受けて高まったが、国民政府蔣介石国民党政権は共産党との内戦を優先して(安内攘外)、実現できないでいた。

八・一宣言と西安事件

 1935年、中国共産党はコミンテルンの人民戦線戦術に呼応して、八・一宣言を発表して国民党に対し、統一した抗日を呼びかけた。蔣介石はそれを無視していたが、満州を日本軍に奪われて抗日の熱意に燃える張学良が翌年、蔣介石を軟禁して抗日民族統一戦線の結成を迫るという西安事件が起きるに及んでようやく蔣介石がそれに応じ、日中戦争が始まった1937年に第2次国共合作として成立した。
 中国の抗日民族統一戦線の下で、共産党軍(紅軍)が国民政府の国民革命軍に組み込まれて八路軍などが編成され、中国全土で日本軍の侵略と戦った。蔣介石政府は重慶、共産党は本拠を延安という、いずれも中国奥地に避難し、日本軍に頑強に抵抗した。日本軍は、国民党と共産党の共闘を過小評価していたため、結局は中国全土を制圧することはできなかった。
 1945年8月、日本軍は太平洋戦線での敗北と連動して大陸においても降伏した。その後、国民党と共産党は中国統治の主導権をめぐって再び対立することとなり、46年に国共内戦(第2次)に突入し、民族統一戦線は終わりを告げた。
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