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八・一宣言

1935年、コミンテルンの方針で中国共産党が発した抗日統一戦線結成の呼びかけ。国共合作は翌年の西安事件を経て具体化し、37年の日中戦争勃発を受けて発足する。

抗日統一戦線結成の呼びかけ

 1935年7月、コミンテルンは第7回大会を開催して、従来の方針を大きく変更し、「反ファシズム人民戦線」を提唱した。中国については8月1日付けで「一切の救国、救民の組織が連合して、統一国防政策を樹立しよう」という宣言が、モスクワにいた中国共産党の王明によって発せられた。
 おりから日本軍による満州国建設に続く中国侵略がさらに露骨になり、1935年には華北分離工作が進められていたが、南京にあった国民政府蔣介石政権は、共産党との内戦を優先し、日本軍にはほとんど抗戦しない姿勢をとり、傀儡政権である冀東防共自治政府の設立を認るなど、屈辱的な妥協を重ねていたので、国民の怒りが強まり、同年12月には北京の学生を中心に十二・九学生運動が始まり、中国共産党もその指導にあたった。

西安事件による第2次国共合作成立

 こうして「日本帝国主義打倒」、「内戦を停止せよ」との声が強まるなか、当時、長征の途上にあった毛沢東が中国興産島の主導権を握り、抗日民族統一戦線の結成に同調するようになった。
 ついで1936年の西安事件で張学良が蔣介石を軟禁して内戦の停止と国共合作を強く迫った。蒋介石もそれに同意し、共産党との国共合作の交渉に入った。このような抗日戦線結成の機が熟しているところに、1937年7月、盧溝橋事件をきっかけに日本軍は中国への全面的侵攻を開始したのだった。この日中戦争の開始によって、9月に第2次国共合作が成立する。
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ノートの参照
第15章4節 ウ.満州事変・日中戦争と中国の抵抗