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八・一宣言

日本軍の中国本土侵略が進む中、1935年、コミンテルンの方針で中国共産党が発した抗日統一戦線結成の呼びかけ。国共合作は翌年の西安事件を経て具体化し、37年の日中戦争勃発を受けて発足する。

コミンテルンの呼びかけ

 1935年7月、コミンテルンは第7回大会を開催して、従来の方針を大きく変更し、「反ファシズム人民戦線」を提唱した。それまで打倒の対象としていたブルジョワ民主主義勢力とも、ファシズムを倒すために同盟しよう、という呼びかけであった。中国については1935年8月1日付けで「一切の救国、救民の組織が連合して、統一国防政策を樹立しよう」という宣言が、モスクワにいた中国共産党の王明によって発せられた。この人民戦線戦術はスペインフランスでの実行されたことを受けて、コミンテルンで採用された方針であり、中国での象徴が「八・一宣言」であった。
 八・一宣言の正式名は「抗日救国のために全同胞に告げる書」で、中国共産党中央と瑞金 の中華ソヴィエト共和国政府の連名で出されていたが、実際の起草と伝達を担当したのはモスクワのコミンテルンに駐在した中国共産党代表団(王明など)であり、公開されたのは同年10月頃のようである。<石川禎浩『中国共産党、その百年』2021  筑摩選書 p.121>

国共合作(第2次)への動き

 おりから日本軍による満州国建設に続く中国侵略がさらに露骨になり、1935年には華北分離工作が進められていた。しかし南京にあった国民政府蔣介石政権は、共産党との内戦を優先し、日本軍にはほとんど抗戦しない姿勢をとり、傀儡政権である冀東防共自治政府の設立を認めるなど、屈辱的な妥協を重ねていた。そのため、国民の怒りが強まり、同1935年年12月には北京の学生を中心に十二・九学生運動が始まり、中国共産党もその指導にあたった。
 中国共産党は、1934年10月に国民政府軍に拠点の瑞金を追われ、いわゆる長征を開始していた。その途次、1935年1月の遵義会議において中国の独自路線を主張する毛沢東が主導権を握ったが、この段階ではまだソ連留学から帰国したコミンテルンに忠実な勢力も残っていたので、この八・一宣言も正式な文書として発表された。こうして「日本帝国主義打倒」、「内戦を停止せよ」との声が強まるなか、中国共産党の主導権を握った毛沢東は、抗日民族統一戦線の結成に同意した。

西安事件による第2次国共合作成立

 それでもなお敵対していた国民党と共産党を、合作へと向かわせたきっかけが1936年12月12日に起こった西安事件であった。東北軍の張学良が、共産党軍との戦いを督励に来た蔣介石を西安で軟禁し、内戦の停止と国共合作を強く迫った事件だった。蔣介石は強く反発したが、国民党穏健派と中国共産党から派遣された周恩来などの説得を受け、内戦の停止に同意した。これですぐに国共合作が成立したわけではないが、共産党との国共合作の交渉が始まり、抗日戦線結成の機が熟しているところに、1937年7月、盧溝橋事件をきっかけに日本軍は中国への全面的侵攻を開始したのだった。この日中戦争の開始によって、9月に第2次国共合作が成立する。
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