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フランス人民戦線

1935年6月に社会党・共産党・急進社会党の三党を中心にして反ファシズム統一戦線が成立、翌36年1月にブルム内閣を成立させた。フランスにおけるファシズム政権成立を阻止し、社会政策を実施したが、経済問題・スペイン不干渉政策で内部対立が激化し、37年6月総辞職して崩壊した。

 フランスでは第一次世界大戦後に社会党から多数派が共産党として分離し、コミンテルン支部として活動し、この両者は社会主義政党でありながら路線をめぐって激しく対立していた。特に1928年にはスターリンとコミンテルンは「社会ファシズム論」をかかげ、社会民主主義路線(暴力革命を否定し、議会制民主主義の枠内での政権獲得による社会改良を目指す路線)は資本主義ブルジョワ政治権力に協力するファシズムの一形態にすぎないとして、それらとの階級的な戦いを強めることを共産党に指示したため、ますます激しくなった。社会党はスターリンとコミンテルンによる干渉を自由と独立の抑圧と捉え、反発を強めた。こうして共産党と社会党は論争と同時に激しい中傷合戦を繰り返し、その影響を受けて労働組合運動も混乱、衰退の傾向を強めた。一方、当時政権を握っていた急進社会党(社会主義政党ではなくブルジョワ中間派を基盤とした共和主義政党)は汚職事件が相次いでおり、王党派や国粋主義者などの右派ファシズム勢力は共産主義の恐怖を煽るとともに議会政治の腐敗を激しく攻撃していた。
 フランスは大企業が充分成長していなかった分、1929年の世界恐慌の影響は比較的少なく、また時間がかかった。それでも33年ごろにはイギリスのポンド、アメリカのドルがそれぞれ平価を切り下げたこともあって国際競争力が低下し、次第に倒産、失業が増え経済状況は悪化してきた。そのようなか、国内でもファシズムの台頭が始まっていた。内外のファシズムの台頭に対して、社会党・共産党は依然としてにらみ合っていたので、知識人や労働組合の中に両者の統一戦線をつくることを望む声が強くなってきた。

Episode 「薔薇のスタビスキー」事件

 ドイツでナチス政権が登場した1933年末、フランスは政界を巻き込む汚職スキャンダル事件で世間の目が奪われていた。アレクサンドル=スタヴィスキーという人物が地方都市バイヨンヌの市金庫を設立するという話をでっち上げ、経済界や政治家から多額の金を搾取したことが明るみに出たのだ。スタヴィスキーは社交界でも知られ、隠然とした力を政治家や警察にも及ぼし、巧みに逃げ回ったが、時の急進社会党政権にも逮捕者が及んでくると、翌年1月8日、スイス国境に近いシャモニーで自殺死体となって発見された。これに右翼の新聞が政権による口封じのための謀殺だとかみついた。自殺の翌日、植民地相ダリミエが辞職し、疑惑がますます深くなると、アクション=フランセーズなど右翼団体は急進社会党ショータン内閣打倒のデモを呼びかけた。2月6日、右翼団体がコンコルド広場に結集し、ショータンに替わったダラディエ内閣の打倒、腐敗した政党政治、議会政治の停止を叫んで警官隊と衝突、18人の死者を出した。この2月6日騒擾事件は、議会政治の危機としてブルジョワ政党である社会急進党だけでなく、社会主義政党のフランス社会党、共産党に強い危機感をもたらし、議会政治と民主主義の擁護という共通目標での提携の動きが出てきた。

人民戦線戦術に転換

 1934年2月6日事件と言われる右翼の騒擾事件は、左派の結集を呼び起こし、人民戦線成立の一つのきっかけとなった。2月12日には社会党と共産党の双方が呼びかけてゼネストとデモが行われ、パリから全国に広がった。これは両者の具体的な協力の第一歩となった。共産党と社会党はそれぞれ組織として統一戦線方針を承認し、共産党のトレーズ、社会党のレオン=ブルムら両党代表は1934年7月14日(パリ祭の夜)に会合して協定を締結した。さらに共産党のトレーズはブルジョワ自由主義派である急進社会党のダラディエにも働きかけ、10月にその同意を得て、ここにフランス人民戦線が一つの運動体となって発足した。
 ヴェルサイユ体制打破を掲げるヒトラーは1935年1月にザール編入を実現し、同年3月には再軍備(徴兵制復活)に踏み切りナチスドイツの脅威がフランスに及んできた。フランスの急進社会党などブルジョワジーは共産党との提携に不安を抱いていたが、同年5月、仏ソ相互援助条約が締結され、スターリンがフランスの国防に理解示し、さらに同年7月にコミンテルン第7回大会で方針を大きく転換、反ファシズム人民戦線戦術をとることを決定したことを受けて、人民戦線への参加を決意した。

1935年7月14日、パリ祭の当日 人民戦線の成立

 コミンテルンの方針転換より以前にフランス人民戦線は実質的に成立していた。1935年6月、社会党・共産党・急進社会党の三党が加わり、「人民連合全国委員会」が結成され、同年7月14日のパリ祭に、「パンと平和と自由」をスローガンに三党と労働総同盟などの労働団体、人権同盟、反ファシスト知識人監視委員会など50団体がパリに集結した(主催発表は50万、警察発表は10万。実数は約25万とされる)。「この日、パリだけでなくフランス全土に三色旗と赤旗が林立していた。」単なる左翼の結集にとどまらない広範な国民の結集は、右派を圧倒した。
(引用)コミンテルンは、モスクワからこうしたフランスの動向、トレーズの実験を注意深く見守っていた。そして7月14日の直後、7月25日より開かれたコミンテルン第7回大会で、書記長ディミトロフは次のようにいった。「50万の人々の参加した7月14日のパリの反ファッショ・デモとその他のフランスの都市におけるおびただしいデモの意義は、はかり知れぬほど大きい。これはたんに労働者の統一戦線運動であるだけではない。これはフランスにおけるファシズムに反対する広範な一般的人民戦線の始まりである」と。<海原峻『フランス人民戦線』1967 中公新書 p.87>

フランス人民戦線を成立させた力

 コミンテルンの戦術転換は、フランス人民戦線の決定的要因ではあったが、それによってのみ成立したのではなかった。迫り来るナチス=ドイツという外からの脅威と、さまざまな右翼団体の台頭という内からの不安、これらが強まる中で広範な人々の中に統一戦線の結成を望む要求、またその運動が起こったことが心の要因であった。それまでいがみ合っていた社会党と共産党が、自ら姿勢を転換させ、また急進社会党も自由の擁護という理念に動かされ、それぞれが自主的な判断で運動に加わったことが重要である。共産党はトレーズの指導の下、自ら積極的に動き社会党、さらにブルジョワ政党である急進社会党とも同盟する道を選んだ。これはコミンテルンの指導と言うより、むしろフランス共産党がコミンテルンの基本姿勢を転換させたという経緯を取っている。
国際的な反戦会議の動き また、この両党に、イデオロギーを越えて反ファシズムの統一運動を迫ったのが知識人や文学者の存在だった。その先駆となったのが、1932年、ロマン=ロランやバルビュスらの呼びかけで開催されたアムステルダム国際反戦大会である。これは政党とは別の所から起こった、国境を越えた平和運動の最初のものであった。また1934年2月、一人の青年ピエール=ジェロームらが始めた「反ファシスト知識人監視委員会」は、博物館教授や哲学、物理学教授など既成の左翼組織に属さない人々が参加した。また革命的作家芸術家協会にはアンドレ=ジッドやアンドレ=マルロー、ルイ=アラゴンなどが名を連ね、35年6月にはパリでソ連からパステルナーク、エレンブルク、イギリスからオルダス=ハックスレー、ドイツからハインリヒ=マン、ブレヒトなどを招いて「文化擁護国際作家会議」を開催している。
(引用)したがってこうした観点から見てもフランス人民戦線の起源をソ連、またはコミンテルン製のデウス・エックス・マキーナ(神の力で裁断する機械)によってのみ説明することは困難であろう。<海原峻『フランス人民戦線』1967 中公新書 p.64>
 コミンテルンの動向に重要な役割を果たしたと推定できるスターリン自身は、33年ごろまでは社会民主主義を「ファシズムの双生児」とみなしていた。人民戦線政策が公式に採用された35年夏の第7回大会当時もかれ自身は公開的にはどこでもあらわしていない、という。人民戦線戦術はスターリンの発想ではなく、ファシズムに対する有効な手立てであることを示したフランス共産党の「実験」の成功に刺激されたことであったようだ。

人民戦線の綱領

 1935年7月14日に正式発足した「人民連合全国委員会」(まもなく人民連合に替わって「人民戦線」と言われるようになる)は綱領(規約)の作成を開始した。まず組織の性格を、一つの政党ではなく、国内の反ファシズム諸勢力の連絡機関である、と規定し、個人加盟を認めないとした。共産党は個人加盟を認めよと主張したが、急進社会党が反対し、共産党が妥協した。綱領作成でも難航したが、共産党は社会主義化よりブルジョワ民主主義の維持を優先するという姿勢を取り妥協した。社会党内の左派、トロツキー派などは、人民戦線が革命と社会主義改革を放棄していると不満を強めた。それでも7月14日のスローガン「パンと平和と自由」で一致できる政策に絞る努力を各派が行い、1936年1月12日に「人民戦線綱領」ができあがった。以下、その主な項目である。
  • ファシスト団体の武装禁止、事実上の解散。暗殺による徴発などの禁止。
  • 議会内での兼任禁止による政治の健全化。
  • 言論、報道。組合活動、学問、信仰の自由の保障。国営ラジオ局の開設。
  • 義務教育の無償、学校の中立化、非宗教化。教員団体の市民権の尊重。
  • 侵略を定義し、侵略に対する共同制裁を適用し、集団安全保障のための国際連合に協力する。
  • まず軍備制限、ついで全般的軍縮による非武装平和への移行を努力する。
  • 兵器産業は国有化し、兵器の民間取引を禁止する。
  • 秘密外交の排除。国際連盟から脱退した諸国を復帰させる公開交渉を行う。
  • 恐慌により消滅、または低下した購買力の回復をはかる。
  • そのため失業資金の創設、賃金引き下げを行わず、労働時間を短縮。
  • 老齢者労働者に十分な退職金制度を設けることによって、青年が就職できるようにする。
  • 穀物の投機的取引を制限、監視。
  • 貯蓄の強奪に対抗し、よりよい金融組織を作る。
  • そのために銀行家業務を規制する
  • 経済的少数者支配から財政及び金融を解放する。
  • フランス銀行を国有化する。
 経済要求は急進社会党の意志が最も尊重されている。社会党と労働総同盟が要求していた産業国有化は兵器産業とフランス銀行のみに限定された。問題点としては、植民地問題で、わずかに調査委員会を設置するだけの内容だった。インドネシアとアルジェリアの二大植民地ではすでに反フランスの民族運動が始まっていたが、多くのフランス人は文化伝播意識が強く、植民地とその民族運動に関してはほとんど無知であった。やがてこの問題はフランスにとって最も深刻な問題となっていく。また当時フランスにいたトロツキーと、その同調者は、スターリンと人民戦線は「革命とプロレタリア国際主義の旗を放棄した。彼らは階級協調と神聖同盟の改良主義の中にのめりこんでいる」と批判した。<海原峻『フランス人民戦線』1967 中公新書 p.101>

ブルム人民戦線内閣の功罪

 1936年の総選挙は4月の第1回と5月の第2回という二回選挙制で行われ、社会党が146議席で第1党となり、共産党も議席を伸ばした。急進社会党は減少したが、三党を中心とした人民戦線派は全体で373議席、反人民戦線派は合計で248議席で人民戦線が多数を占めて勝利した。その結果、社会党のレオン=ブルムを首班とする内閣が6月に成立した。共産党はソ連の影響力が誇大に宣伝されることを避け、入閣せず閣外協力にとどまるという柔軟な姿勢をとった。
 そのころ、労働者の工場占拠を戦術とするストライキが多発していた。労働者は人民戦線内閣の成立を背景に、資本家側に圧力をかけようとした。左派のトロツキー派はこの情勢を一気に革命までもっていこうともしていた。成立直後のブルム内閣は、ブルム自身がラジオ演説でストライキの収束を訴え、労働総同盟と資本家側の調停に乗り出し、マチニョン協定と言われる労使協定の締結で妥結に持ち込んだ。協定では団体協約の制定、組合活動の自由、賃金の引き上げ、などが約束され、ブルム内閣はこれを労働者の勝利として評価するとともに、過激な工場占拠などは不法行為として取り締まるなど左派のトロツキー派などに対する弾圧を行った。
 5~6月のストライキの激化を乗り切ったブルム内閣は、積極的な施策を開始した。週40時間労働制、有給休暇制、団体協約、官吏待遇の改善、恩給制度の改善などを次々と議会に上程、成立させていった。とくに有給休暇制度によって労働者は年間に二週間の有給休暇が初めてあたえられ、36年の夏はフランス史上初めて山に海に労働者が大規模な有給休暇を楽しんだ。そのほか、人民戦線綱領に盛り込まれたファシスト団体の解散、フランス銀行の国有化などが次々と実現していった。
 ブルム内閣の労働者待遇向上策は、購買力を高めて経済を活性化する狙いであったが、反面国内製造コストが増大してフランス製品の輸出が振るわなくなった。金フランが国外に流出し、国内の資本が不足する事態になると、資本家側の反撃が始まった。産業資本家の意を受けた急進社会党は蔵相を動かし、当初否定していたフラン平価の切り下げを行い、金本位から離脱して輸出増を図ったが、そのため労働者の実質賃金は急速に低下し三ヶ月前のマチニョン協定で得た利益の半分を失うことになった。資本家は工場で生産サボタージュを平然と行い、議会ではブルム政府転覆の陰謀が横行するようになった。こうして成立後わずか4ヶ月でブルム内閣は経済政策の失敗というイメージを残し、弱体化してしまった。

スペイン内戦をめぐって

ブルム内閣を深刻な内部対立に追い込んだのは、経済問題とともにスペイン内戦における支援問題であった。フランスよりも4ヶ月早くスペイン人民戦線政府が成立していたが、国内で軍部の反乱が始まっていた。共和国政府と労働者は軍部反乱を鎮圧したが、7月にモロッコで反乱を開始したフランコ将軍は、ドイツとイタリアのファシズム国家の軍事支援を得て、本土への攻勢を開始した。共和国政府はブルム内閣にただちに支援を要請したのだった。ブルム首相と共産党はただちにスペイン共和国政府支援をけってしたが、社会党右派や急進社会党はスペイン共和国へのソ連の影響力が強くなっていること、社会改革を進めているスペインを支援すればフランス内で再び労働者の改革要求が強まることを恐れ、支援に反対した。またイギリスもソ連を警戒してフランスに同調せず、不干渉政策を取ることを表明、フランスにも圧力を強めてきた。こうしてブルム首相は閣内で孤立し、結局正式な支援はしないことになった。共産党員は個人の資格で義勇兵として支援に向かったが、スペイン内戦がフランコ派の勝利に帰したことによってフランス人民戦線も後退せざるを得なくなった。スペイン内戦(実態は戦争)はこうしてスペインの人民戦線だけでなく、フランス人民戦線をも崩壊に追い込むこととなった。

フランス人民戦線の終焉

 ブルム内閣がスペイン支援問題で内部対立に陥ると、ブルジョワジーと資本家は反撃の機会が到来したとばかり、労働組合とのマチニョン協約を一方的に破棄、反発した組合が再びストを構え、社会が騒然としてきた。そのような中、新たに右派の結集が進み、フランス人民党というナチスを真似たファシスト党も結成された。左右両派の対立は衝突して7名の死者が出るというクリッシー流血事件(37年3月16日)が起こり、ブルム内閣はそれを収拾できず、急進社会党が反対したため内閣の提案が議会で次々否決され、ついに37年6月22日に総辞職した。形の上では次の内閣も人民戦線の形態を取ったが、混乱は続き、一時ブルムが復活して第二次内閣を組織したが、ストライキの波が収まらずわずか1ヶ月で退任し38年4月、急進社会党のダラディエが内閣を組織した。しかしこのダラディエ内閣はもはや人民戦線内閣とは言えず、ブルム内閣の説きに制定された40時間労働制などの労働者保護政策を次々と廃止し、資本家に迎合する姿勢を明確にした。そして何よりも、ダラディエは38年9月、ミュンヘン会談に臨んでイギリスのネヴィル=チェンバレンとともにヒトラーに対する宥和政策を明確にして、そのチェコスロヴァキアの一部併合を容認し、人民線のファシズムに抵抗するという基本姿勢を放棄した。
 人民戦線を推進してきたコミンテルンとソ連のスターリンは、スペイン人民戦線の敗北とフランス人民戦線政府の崩壊とを見届け、1939年8月末に独ソ不可侵条約を締結した。これによって人民戦線戦術が完全に放棄されたことを意味し、人民戦線に希望を託して結集して戦った多くの共産党員、社会主義者、自由主義者たちは、裏切られた思いを強くもった。<以上、海原峻『フランス人民戦線』1967 中公新書 を元に要約した。>