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ダンツィヒ/グダンスク

バルト海に面した海港都市で中世ではドイツ人が支配するハンザ同盟都市として繁栄した。15世紀にポーランド領に復し、貿易港として繁栄が続いた。第一次世界大戦後、ヴェルサイユ条約では国際連盟管理下の自由市とされた。実際にはポーランドが管理していたが、1939年ヒトラーのドイツがその割譲を要求、第二次世界大戦の勃発に至った。戦後、ポーランド領に復してからはグダンスク(グダニスク)という。


グダニスク(旧ダンツィヒ)

 ダンツィヒ Danzig はダンチヒとも表記され、現在のポーランドのグダンスク Gdańsk (グダニスク)のドイツ語表記。ドイツ語でダンツィヒと言われたこの都市は、第一次世界大戦で国際連盟の管理下に置かれて「ダンツィヒ自由市」となり、第二次世界大戦後にポーランド領となってからはグダンスクと呼ばれている。バルト海に面したポモージェ(ドイツ名ポンメルン)地方の中心都市である商業港として重要である。この地にはスラヴ人が居住し、農耕生活を営んでいたが、12世紀末にドイツ人の東方植民が進み、ドイツ人によって都市ダンツィヒが建設された。そのころから、内陸部の穀倉地帯ではグーツヘルシャフト(領主による直営地農場経営)が行われ、西欧向けの小麦が生産されていた。

ハンザ都市となる

 この地を1308年に征服したドイツ騎士団のもとで、ダンツィヒは1361年にハンザ同盟に加わり、ハンザ商人の穀物取引の拠点となった。1410年に、ポーランドがドイツ騎士団をタンネンベルクの戦いで破ってから、ドイツ騎士団は後退、1466年、ポーランド領に復した。この激動の中で、ダンツィヒは広範な自治権を認められるようになり、ハンザ同盟の中でも有力な都市として繁栄した。ハンザ同盟は16世紀には衰退したが、ダンツィヒはポーランド最大の貿易港としてその後も続いた。

ポーランド分割

 しかし、近世以降はポーランドがヨーロッパ列強による領土的野心に晒されると、ダンツィヒも苦難の歴史を歩むこととなる。特に、ダンツィヒの東側のプロイセンがドイツ本国との間にあるこの地を併合しようと狙うようになる。ポーランドの弱体化に乗じ、18世紀のロシア、プロイセン、オーストリアによるポーランド分割が行われた結果、1793年ポーランド第二回分割でダンツィヒはプロイセン王国領となった。

ダンツィヒ自由市

 プロイセンがナポレオンのフランスに敗れた後のティルジット条約ではダンツィヒは自由市とされたが、ナポレオン没落後のウィーン会議で成立したウィーン議定書でプロイセン領に戻され、1871年にドイツ帝国が成立するとその領土として継承された。ダンツィヒはドイツの重要な貿易港として繁栄し、さらにその周辺の西プロイセンはケーニヒスベルクなどの東プロイセンとの間を結ぶ重要な地帯となっていた。
 その後、第一次世界大戦でドイツが敗北し、ポーランドの独立が回復されると、ポーランドは海への出口であるダンツィヒとバルト海に面する地帯も強く要求した。それをうけて、1919年のヴェルサイユ条約では、ダンツィヒはドイツから切り離され、国際連盟管理下の自由市とされ、外交関係と関税はポーランドが管理することとなった。
 ダンツィヒを舞台とした小説『ブリキの太鼓』で、ギュンター=グラスは次のように説明している。
(引用)……人びとは将来の戦争の原因となる講和条約(引用者注、ヴェルサイユ条約のこと)をでっちあげていた。ヴィスラ河一帯……は、自由国家に指定され、国際連盟の管理下に置かれた。ポーランドは旧市内に自由港と弾薬庫のあるヴェスタープラッテを確保し、鉄道を支配し、ヘヴェリウス広場に独自の郵便局を持つこととなった。自由国家の切手がハンザ同盟の船と紋章をあらわす赤と金の華やかさを手紙に与えたのに対し、ポーランド人はカジーミェシュ大王とバドーリ王の歴史を図柄にした陰気な紫色の光景の切手を貼った。<G.グラス/高本研一訳『ブリキの太鼓』第1部 集英社文庫 p.50-51>

ポーランド回廊

 こうしてダンツィヒ(ポーランド語ではグダンスク)は事実上のポーランド領となり、唯一の商業港として繁栄した。ポーランドはこの地のポーランド化を進めようとしたがドイツには失われたダンツィヒとポーランド回廊の回復の要求も強く、両国間の緊張が続く中、ヴェルサイユ体制の打破を掲げるナチスが台頭、彼らは公然とその奪回を標榜した。

第二次世界大戦の勃発

 1939年3月、ナチス=ドイツはポーランドに対し、ダンツィヒの割譲とポーランド回廊の通行を要求し、ポーランドが拒否すると、同年9月1日にドイツ軍がポーランドに侵攻し、第二次世界大戦が勃発した。
ドイツ軍のダンツィヒ砲撃から戦争始まる 1939年9月1日午前4時45分、ドイツ巡洋艦シュレスヴィヒ・ホルシュタイン号がダンツィヒに対する砲撃を開始、ドイツ空軍はポーランド各地の空港、鉄道、都市を爆撃し、陸軍は国境を越えて侵攻した。ダンツィヒはナチスが主張するドイツ人の生存圏の中でまず第一に奪回しなければならないところとされ、この日を以てドイツに併合されたのだった。
 ギュンター=グラスの『ブリキの太鼓』には、ドイツ軍の砲撃の口実となった、ダンツィヒのポーランド郵便局でのポーランド人の抵抗が描かれている<第二部>。その映画化でも、第二次世界大戦の最初の戦闘となったポーランド郵便局の攻防戦が映像化されているので参考になろう。
 1941年6月22日、独ソ戦開始が開始され、ソ連軍が進撃してくるとダンツィヒはドイツ軍の重要拠点であったので激しい攻撃にさらされ、市街地はほぼ壊滅した。1945年5月にナチス=ドイツが敗北し、ポーランドは解放されたが、その後はソ連の強い影響下におかれ、ダンツィヒのドイツ人もドイツに強制送還された。1952年以降はポーランド人民共和国の主要な工業都市・貿易港グダニスクとして重要な存在となっている。

グダニスクのポーランド民主化運動

 ソ連の衛星国とされたポーランドでは、56年にポーランド反ソ暴動が起こったが、統一労働者党ゴムウカによって沈静化され、社会主義体制を維持したが、その硬直した指導は次第に経済の停滞を招き、70年代には民主化を求める運動が始まった。その最初の動きとなったのが、1970年のグダニスク造船所の労働者による物価値上げ反対のストライキであった。
1980年にはグダニスクのレーニン造船所の労働者がワレサに率いられてストライキに立ち上がり、8月31日に政府と労組の合意協定(グダニスク協定)が成立し、独立自主管理労組の結成などが認められ、10月に全国の独立自主管理労組が結集した「連帯」が発足した。第二次世界大戦後のグダニスクは、ポーランドの民主化の中心地となったと言うことができる。
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文庫本案内

G.グラス/高本研一訳
『ブリキの太鼓』
原作 1959
2012 集英社文庫

ドイツ時代のダンツィヒが舞台。体の成長が止まった少年の目を通じて戦争の時代を描く。奇怪な物語だが、ドイツとポーランドと国が変わり民族が交差したダンツィヒの歴史と人間の真実が語らる。様々な議論を生んだ問題作。

PRIME VIDEO

『ブリキの太鼓』
原作 G.グラス
監督 F.シュレンドルフ
1979 ドイツ映画

難解な原作を丁寧に映像化している。原作を併せ読むと良い。戦争と民族の合間に揺らぎながら生き抜く人々。大戦の終結までを描く。