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ダンツィヒ/グダニスク

バルト海に面した港でヴェルサイユ条約では国際連盟管理下の自由市とされた。実際にはポーランドが管理していたが、1939年ヒトラーのドイツがその割譲を要求、第二次世界大戦の勃発に至った。現在はポーランド領のグダ二スク。

 現在のポーランドのグダニスク(グダンスク)(そのドイツ語表記がダンツィヒ)。バルト海に面したポモージェ(ドイツ名ポンメルン)地方の中心都市である商業港で、ポーランド人が居住していたが、早くからドイツ人が流入していた。1308年、ドイツ騎士団によって征服され、1361年にはハンザ同盟に加わって繁栄した。1466年、ポーランド領に復したが、国王から広範な自治権を認められた。ポーランド分割でプロイセン領となった。プロイセンがナポレオンのフランスに敗れた後のティルジット条約ではダンツィヒは自由市とされたが、1871年にドイツ帝国が成立するとその領土として継承された。ダンツィヒはドイツの重要な貿易港として繁栄し、さらにケーニヒスベルクなどの東プロイセンとの間を結ぶ重要な地帯となっていた。

ダンツィヒ自由市

 その後ダンツィヒは人口の90%を占めていたが、第一次世界大戦でドイツが敗北し、ポーランドの独立が回復されると、ポーランドは海への出口であるダンツィヒとバルト海に面する地帯も強く要求した。それをうけて、1919年のヴェルサイユ条約では、ダンツィヒはドイツから切り離され、国際連盟管理下の自由市とされ、外交関係と関税はポーランドが管理することとなった。
 こうしてダンツィヒ(ポーランド語ではグダニスク)は事実上のポーランド領となり、唯一の商業港として繁栄した。ポーランドはこの地のポーランド化を進めようとしたがドイツには失われたダンツィヒとポーランド回廊の回復の要求も強く、両国間の緊張が続く中、ヴェルサイユ体制の打破を掲げるヒトラー=ナチスが台頭、彼らは公然とその奪回を標榜した。

第二次世界大戦の勃発

 1939年3月、ヒトラー=ドイツはポーランドに対し、ダンツィヒの割譲とポーランド回廊の通行を要求し、ポーランドが拒否すると、同年9月1日にドイツ軍がポーランドに侵攻し、第二次世界大戦が勃発した。ダンツィヒの奪回は、ヒトラー=ナチスが主張するドイツ人の生存権の中でまず第一に奪回しなければならないところとされ、この日を以てドイツに併合されたのだった。
 独ソ戦が開始され、ソ連軍が進撃してくるとダンツィヒはドイツ軍の重要拠点であったので激しい攻撃にさらされ、市街地はほぼ壊滅した。1945年5月にナチス=ドイツが敗北し、ポーランドは解放されたが、その後はソ連の強い影響下におかれ、ダンツィヒのドイツ人もドイツに強制送還された。1952年以降はポーランド人民共和国の主要な工業都市・貿易港グダニスクとして重要な存在となっている。

グダニスクのポーランド民主化運動

 ソ連の衛星国とされたポーランドでは、56年にポーランド反ソ暴動が起こったが、統一労働者党ゴムウカによって沈静化され、社会主義体制を維持したが、その硬直した指導は次第に経済の停滞を招き、70年代には民主化を求める運動が始まった。その最初の動きとなったのが、1970年のグダニスク造船所の労働者による物価値上げ反対のストライキであった。
1980年にはグダニスクのレーニン造船所の労働者がワレサに率いられてストライキに立ち上がり、8月31日に政府と労組の合意協定(グダニスク協定)が成立し、独立自主管理労組の結成などが認められ、10月に全国の独立自主管理労組が結集した「連帯」が発足した。第二次世界大戦後のグダニスクは、ポーランドの民主化の中心地となったと言うことができる。
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ノートの参照
第15章2節 ア.ヴェルサイユ体制とワシントン体制