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四人組

中国の文化大革命期に毛沢東の周辺で実権を振るった江青ら4人。1976年に権力を失い、裁判にかけられ死刑などに処せられた。

 1960年代後半から70年代前半、中国の文化大革命期に、運動を推進した江青(毛沢東夫人)、張春橋、姚文元、王洪文の四人を「四人組」と称した。彼らは1965年に呉晗の史劇『海瑞免官』を、廬山会議で毛沢東を批判した彭徳懐を擁護するものだとキャンペーンを初め、それが文化大革命の発端となった。

文化大革命を扇動

 1966年、劉少奇鄧小平らの実務派の台頭を資本主義への転化につながり自己の権力を脅かすものと警戒した毛沢東プロレタリア文化大革命を開始すると、軍を握り毛沢東の後釜をねらう林彪と協力して、改革を進める劉少奇・鄧小平らを走資派として大々的な批判を展開した。四人組は毛沢東を神格化し、「毛沢東語録」を掲げて紅衛兵を扇動して走資派のつるし上げ、各地の文化財の破壊などを行わせた。

林彪事件と文革の変質

 1969年には毛沢東の後継者として林彪が指名されたが、2年後の71年には林彪がクーデターに失敗してモンゴルで墜落死するという林彪事件がおこった。その後は四人組が実権を握るようになったが、そのころになると毛沢東も四人組への権力集中を警戒するようになり、周恩来の実務権限を強め、73年には鄧小平を復活させてバランスをとろうとするようになった。
 それに対して四人組は「批林批孔」運動と称して、林彪と孔子を批判する運動を開始した。それは林彪の権力奪取と孔子の保守主義を批判するという形でその矛先は周恩来・鄧小平に向けられていた。
 1975年、周恩来は鄧小平を結んで、四つの現代化を提唱し、近代化による国民生活の安定を図った。その動きを資本主義への後退であると批判を強めた  1976年に周恩来が死去すると、北京で四人組反対の暴動である第1次天安門事件が起こった。しかし毛沢東は、民衆の反政府活動を畏れ、鄧小平を民衆扇動したとして再び失脚させ、四人組を擁護した。

四人組の逮捕

 1976年9月9日の毛沢東死去は中央における権力闘争を一段と激しいものにした。四人組は江青の党主席ポスト獲得を図り、それを阻止しようとする華国鋒ら文革穏健派、李先念ら周恩来系の中間派官僚、王震ら復活幹部グループ、葉剣英ら軍長老グループが反四人組連合を形成した。
 反四人組連合は10月6日、先手を打って王洪文、張春橋、江青、毛遠新らを逮捕、翌7日、中共中央は華国鋒の党主席・党中央軍事委員会主席の就任決定を発表した。1980年には「林彪・四人組裁判」が実施され、江青・張春橋は死刑判決、姚文元は懲役二十年、王洪文は無期懲役の判決を受けた。こうして文化大革命の申し子である四人組は敗者となった。
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ノートの参照
第16章3節 ウ.動揺する中国