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周恩来

中国共産党指導者。国共合作に重要な働きをし、抗日戦で活躍。1949年、中華人民共和国の初代首相となる。第三世界のリーダーとして国際的に活躍した。毛沢東に協力しながら改革にも理解を示し、近代化の必要を唱えた。文化大革命の危機は乗り切ったが、1976年の死の際には支持する市民による天安門事件(第一次)が起こった。

 周恩来は1898年の生まれで毛沢東より5歳年下。戦前から中国共産党に参加して、長征中の遵義会議で毛沢東を支持してから、一貫してその信頼が厚く、時として牽制し合いながら、1976年の死去まで中国の指導者として活躍した。特に、中華人民共和国成立後は国務院総理として、1954年頃からインドのネルーなどと共に展開したアジア外交は米ソ冷戦のさなかの第三世界を台頭させる重要な役割を担った。毛沢東を中国の「建国の父」とすれば、周恩来は「建国の母」ということができるとする人も多い。また1949年からその死の76年までの26年間、国務院(内閣)総理大臣として務め、文化大革命でも失脚せず、「不倒翁」と言われた。

周恩来の日本留学

 周恩来は1898年に江蘇省の比較的豊かな都市知識人の家庭に生まれたが、父の代に貧困に陥り、養子に出されるなど苦労をした。天津の南開学校に学んで学業優秀だったので、当時の多くの青年と同じく留学を目指したが、旅費が安あがりな日本を選び、1917年に東京にやってきた。19歳だった周恩来の1918年の日記が公刊されている。周恩来は東京に下宿し、日本語の習得のための東亜学院で学びながら浅草や早稲田を歩きまわっている。その留学中にロシア革命を知り、また『新青年』を読み、祖国の現状を強く憂えるゆうになった。当時は日清戦争後の中国人青年の日本留学の最盛期で、周恩来も留学生仲間と議論をしながら政治活動に開眼していった。しかし、目的だった進学は東京高等師範学校(後の東京教育大、現在の筑波大)、第一高等学校(後の東大教養学部)の受験に立て続けに失敗し、挫折する。日記の中で自分の勉強不足、特に日本語の学習の不足を嘆いている。1918年5月にシベリア出兵にともなう日華陸軍共同防敵協定の秘密交渉を知り、二十一か条要求の一環だととらえた中国留学生の中に、抗議のために一斉に帰国する運動が起きる。周恩来も授業ボイコットなどに加わりながら、河上肇の著作を通じてマルクス主義を知ったようだ。祖国に帰り政治活動に身を投じようと考えた周恩来は、1919年5月9日に天津に戻った。すでに5月4日、二十一カ条の要求受諾に抗議する運動が始まっており、7日の「国恥記念日」には全国で学生と労働者が決起した。周恩来は帰国するとすぐ南開学校の学生集会に出席、学生運動の先頭に立った。<周恩来『十九歳の東京日記』矢吹晋編/鈴木博訳 小学館文庫 p.275>

Episode 青年周恩来の挫折

 同じ留学生で早稲田大学や慶応義塾に入学するものも多かったが、経済的に余裕のない周恩来は官立学校入学を目指した。官立学校合格者には中国政府から学費と生活費が援助される制度があったからだ。そこで、東京高師と第一高等学校を受験したのだが、いずれも失敗した。一高不合格となった7月5日の日記には次のように書いた。
(引用)酷暑に、故郷の情況を思う。日本にやって来たのに日本語をうまく話せず、どうして大いに恥じずにいられよう! これを自暴自棄というのだ。いかなる国を救うのか! いかなる家を愛するのか! 官立学校に合格できない、この恥は生涯拭い去ることができない!<周恩来『十九歳の東京日記』鈴木博訳 小学館文庫 p.275>

五・四運動への参加

 周恩来は1919年、五・四運動の最中に帰国して天津で学生運動に入った。20年1月、デモ隊を指揮した周恩来は逮捕され、半年間留置された後、南開大学から渡航費用を支給され、同年11月、フランスに渡り、働きながら学ぶという「勤工倹学」に加わりった。鄧小平もその仲間だった。フランスで本格的にマルクス主義を学び、21年に中国共産党に入党した。帰国後、孫文の第1次国共合作により国民党に協力することとなり、周恩来は黄埔軍官学校の教官となった。その校長は蔣介石であった。国共分裂のときは上海でストライキを指導したが、蔣介石の弾圧を受けて撤退、その後南昌での暴動などを指導した。

毛沢東を支える

 国共内戦が激化して共産党が瑞金を放棄すると同行し、長征に参加した。その途次の遵義会議で共産党の路線をめぐる親ソ派と毛沢東派の対立では毛沢東を支持、その有力な同調者となった。延安の本拠地でも毛沢東に次ぐ指導力を発揮、1936年の西安事件では党を代表して蔣介石を説得、抗日民族統一戦線の結成を実現させた。

外交手腕を発揮

 1949年12月の中華人民共和国の成立により、毛沢東主席の下で国務院総理となり、朝鮮戦争後の米ソ冷戦の谷間で積極的な外交戦略を展開、54年のインドシナ・朝鮮問題のジュネーヴ会議では中国の指導者として初めて国際舞台に登場し、優れた外交手腕を発揮した。さらにインドのネルーとチベットの問題で協議して、「平和五原則」の合意に達し、1955年はその理念を柱にインドネシアのバンドンでアジア・アフリカ会議を成功させ第三世界のリーダーとなった。しかし現実にはインドとの関係は悪化し、中印国境紛争が起こっている。以後、主として中国の外交面での活躍が続き、その開明的な姿勢と調整能力で国民の信頼を受け、米中国交回復の交渉に当たり、1972年には訪中した日本の田中角栄首相と日中国交正常化を行い、日中共同声明を締結し、日本との戦争状態を終わらせた。

文化大革命と周恩来

 1965年頃から、毛沢東がプロレタリア文化大革命を推進すると、それに同調したが、時にその行き過ぎを抑える役割を演じ、推進派の林彪四人組からは批判された。林彪事件後は積極的に経済の立て直しに乗りだし、1973年には鄧小平の復権に動き、文化大革命による混乱や経済、生産の停滞を克服する道を探ろうとした。しかしその動きは毛沢東から疑いで見られ、四人組からは再び資本主義への後退をもたらすとして警戒されるようになった。
不倒翁といわれる 周恩来は文化大革命において多くの共産党の実務的な幹部が、実権派・走資派として批判されて失脚する中、強い民衆の支持を背景に権力中枢にとどまり、「不倒翁」として生涯を全うすることとなる。

周恩来の死去

文化大革命の末期、四人組による周恩来批判が強まる中、1976年1月8日に死去。その追悼集会を機に四人組政権に反発する民衆によって第一次天安門事件が起こされた。

批林批孔の名を借りた周恩来批判

 四人組は、周恩来・鄧小平の経済建設路線を文化大革命路線の否定となることを恐れ、周・鄧に対してブルジョア階級に妥協し資本主義を復活させるものとの批判を強めた。1973年の「批林批孔」運動は、ブルジョワ階級への全面的な政治闘争を優先すべきだと主張する四人組が行った林彪と孔子批判に名を借りた周恩来・鄧小平批判であった。

四つの現代化の提起と四人組の反発

 1975年に周恩来は鄧小平とともに「四つの現代化」を提唱し、農業・工業・国防・科学技術での技術革新を取り入れて文化大革命によって停滞した国民生活の立て直しに着手しようとした。それに対して毛沢東は水滸伝の宋江を「投降した修正主義」と論評することによって、宋江=文革を否定する投降派=鄧小平という図式で暗に批判した。それを受けた四人組は「『水滸伝』批判」のキャンペーンを行い、また四人組グループに近い毛沢東の甥、毛遠新が名指しで鄧小平を批判した。これらの動きに同調した毛沢東は、鄧小平はずしを決断した。

周恩来の死と天安門事件(第一次)

 1976年1月8日、「不倒翁」と呼ばれ民衆から親しまれてきた周恩来が死去し、15日その追悼大会が開かれ、そこで弔辞を述べた鄧小平はその直後に権力の座から引きずり降ろされ、再び人々の前から姿を消した。周恩来・鄧小平の路線を支持する北京の民衆は、その後四人組への反発を強め、4月に天安門で大規模な周恩来追悼集会を開いたところ、四人組政府は弾圧を強行、第1次天安門事件が発生した。これは民衆暴動「事件」として扱われ、鎮圧されたが、政権内部では次第に反四人組、反文化大革命の気運が高まり、翌77年には四人組は追放され、華国鋒政権が成立して鄧小平も復権、文化大革命も収束を迎える。<天児慧『中華人民共和国史』1999 岩波新書 などよる>
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第16章1節 ウ.東アジア・東南アジアの解放と分断
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周恩来
『十九歳の東京日記』
矢吹晋編/鈴木博訳
1999 小学館文庫