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劉少奇

中国共産党指導者で1959年に国家副主席となった。毛沢東に走資派として批判され、文化大革命で逮捕されて獄死した。

 1898年、周恩来と同年の生まれで中国共産党創設期からの指導者の一人。ソ連留学から帰り、労働運動に加わり、五・三○事件などを指導した。遵義会議毛沢東を支持してから、その有力な同志として活躍、「毛沢東思想」を提唱した。中華人民共和国の建国時には国家副主席のポストについた。その後1956年9月中共第8回全国大会で、政治報告を行い、毛沢東の後継者と目され共産党ナンバー2の地位についた。

文化大革命で自己批判

 「大躍進」運動の失敗の後、1959年に毛沢東に代わって国家主席に就任し、62年から経済の再建にとりくみ、鄧小平とともに毛沢東路線の修正を図った。1966年、毛沢東は失地回復をねらい、劉少奇・鄧小平らの追い落としにかかる。同年8月「プロレタリア文化大革命の決定」が採択され、劉少奇は党内序列を2位から8位に格下げされ、さらに10月には鄧小平とともに「自己批判書」の提出を余儀なくされ、事実上の軟禁状態となった。こうして劉少奇は実権派、送資派の中心人物とされ、厳しい批判の矢面に立たされることとなった。67年4月1日には『人民日報』は劉少奇を「党内最大の実権派、中国のフルシチョフ」とレッテル貼りをし、9月には北京の要人居住区から追放され、家族とも引き離され、10月には「帝国主義の手先、現代修正主義、国民党反動派の手先」として党からの「永久除名」が決定された(鄧小平は除名ではなく、留党監察とされた)。その後も紅衛兵らによる壮絶な個人攻撃が続き、劉少奇は肉体的にも衰弱し、1969年10月に死去した。

Episode 「ネックレス事件」で糾弾された劉少奇夫人

 文化大革命で「走資派」とされた人に対する紅衛兵らの糾弾は、大きな三角帽子をかぶせ、腰をかがめて頭を下げ、両腕を後ろに伸ばす、「ジェット式縛り上げ」の姿勢をとらせ、長時間にわたって自己批判を迫るものであった。国家主席である劉少奇に対しても容赦ない糾弾が行われ、70歳近い老人であったが激しい暴力が加えられた。また夫人の王光美も紅衛兵によってピンポン球で造ったネックレスを首からかけさせられ、つるし上げを受けた。それは、かつて彼女が国家主席夫人としてビルマに行ったときネックレスをして宴会に出席したことを、毛沢東夫人の江青が嫉妬してそれを批判し、彼女は資本主義者だと言うことになり批判を受けたのだった。<厳家祺ら『文化大革命十年史(上)』1996 岩波書店>
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ノートの参照
第16章3節 ウ.動揺する中国
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厳家祺ら
『文化大革命十年史(上)』
1996 岩波現代文庫