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林彪/林彪事件

中国共産党軍の軍人。文化大革命で毛沢東の後継者に指名されるが71年に失脚、逃亡途中で事故死した。

 日本軍の侵略に対する抗日戦争(日中戦争)期の八路軍の指揮官として活躍し、中華人民共和国建国後は人民解放軍を背景に中国共産党の中枢に参画した軍人。(朝鮮戦争には仮病で従軍を免れ、多くの優秀な軍人が戦死した後に林彪が軍の実権を握ったとも言われている。)
 特に1959年、共産党幹部の廬山会議毛沢東主席の大躍進運動を批判した彭徳懐国防相が解任され、その後任の国防相となってから、毛の忠実な追従者となり、「毛語録」を兵士に配ってその宣伝に努めた。

毛沢東の後継者に指名される

 また毛沢東の周辺の江青など四人組と結んで、文化大革命推進の中心となった。1969年4月、13年ぶりで開催された中共第9回全国大会は「文化大革命の勝利の大会」と位置づけられ、文革の節目となった。大会に出席した代表のほとんどは、毛沢東、林彪、江青らの指名による者であった。また軍人の台頭が目立った。そしてこの大会で、林彪は「党規約」の中に「毛沢東同志のもっとも親密な戦友であり、後継者」と明記された。

クーデタ失敗と謎の死

 しかし、わずか2年余り後の1971年9月に、毛沢東暗殺クーデターを企てて失敗し、厳しく対立していたソ連へ空軍機で妻子とともに亡命を試み、モンゴル上空で墜落死した(九・一三事件)。この林彪事件の経緯が正式に発表されたのはさらに二年後の73年8月で、多くの謎に包まれている。

林彪事件

1971年9月、文化大革命末期の中国で、毛沢東の後継者と見なされていた林彪がクーデタを起こして失敗し、謎の墜落死を遂げた。

 文化大革命期に林彪は軍を抑え、毛沢東に次ぐ権威を獲得し、ナンバー2になった。林彪は盛んに毛沢東を「天才」とおだて、初めは信頼を得ていたが、次第に廻りに腹心の軍人で固め、妻の葉群も暗躍して勢力を強めてくると、毛沢東も林彪を警戒するようになった。毛沢東は林彪が「国家主席」ポストを狙っているものと捉え、あえてそのポストの廃止を提案した。危機を感じた林彪・葉群らは密かに毛沢東暗殺のクーデター計画を進め、1971年9月、上海訪問中の毛沢東の列車を爆破しようとしたが失敗した。

林彪の謎の死

 クーデターに失敗した林彪らは13日、専用機トライデント256号機で北京空港を飛び立ち、ソ連に向かったと思われるが、途中モンゴルの草原で墜落、死亡した。周恩来からのこの知らせを聞いた毛沢東は、「雨は降るもの、娘は嫁に行くもの。好きにさせるがいい!」とだけ言ったという。<厳家其ら『文化大革命十年史』1990 中 p.257>
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ノートの参照
第16章3節 ウ.動揺する中国