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四つの現代化

文化大革命後、中華人民共和国がめざした、農業・工業・国防・科学技術での近代化路線。60年代、周恩来によって提唱されていたが、文化大革命中の75年に鄧小平が再提案した。具体化されたのは文化大革命後の80年代であった。

初め周恩来が提唱

 農業・工業・国防・科学技術の4部門での中国の近代化(さらに現代化)をはかること。「四つの近代化」ともいう。「四つの近代化」は初めは周恩来が1964年に提起していたが、毛沢東主導の大躍進文化大革命の嵐の前に吹き飛ばされた形で消滅した。

鄧小平が継承

 林彪事件で毛沢東の権威が揺らいだ後、周恩来は、林彪・四人組グループによって破壊された経済、文化、教育、科学技術の立て直しを呼びかけ、日本、西ドイツなどの西側諸国との関係正常化により、近代化建設を図り、1973年に鄧小平を復権させ、1975年1月に全人代を開催、「政府報告」を行って、その中で「今世紀内に農業、工業、国防、科学技術の全面的な近代化を実現し、わが国の国民経済を世界の前列に立たせる」とのいわゆる「四つの近代化」の提唱を行った。

第1次天安門事件で挫折

 「文化大革命」の継続を主張する江青など四人組は、この近代化路線を資本主義への転換として激しく抵抗したが、翌76年に周恩来死去を契機に天安門事件(第1次)が起こり、民衆の反政府活動を警戒した毛沢東によって鄧小平が再び解任され、近代化路線はいったん挫折した。

華国鋒から鄧小平へ

 1976年、さらに毛沢東が死去すると、文化大革命に対する不満が表面化し、四人組は解任されて毛沢東の後継者となった華国鋒によって、77年に再び「四つの近代化(現代化)」が掲げられた。それにともなって再び復権した鄧小平は、華国鋒に代わって1981年に実権を握り、改革開放路線を明確に歩み出した。こうして、1980年代以降の中国は資本主義経済に転換するという大転身を遂げ、90年代以降の繁栄を出現させることとなる。

改革開放のゆがみ

 しかし、鄧小平の「四つの現代化」は、あくまで生産性を向上させ、経済を活性化させるためのものであり、政治活動の自由化と基本的人権を全面的には認めたものではなく、共産党一党支配は堅持されるという条件下においての、上からの改革であった。鄧小平の改革開放路線が進むことによって、都市には一定の富裕層が出現、都市住民の間には政治的自由を求める声も強くなっていく。さらに、強引な資本主義化は様々ひずみを生み、貧富の差、都市と農村の格差など現在の中国社会のもつ深刻が問題が後に浮かび上がってくることとなる。<天児慧『中華人民共和国史』1999 岩波新書 などによる>

残された“政治の近代化”

 「四つの近代化」で触れられていない、政治の近代化は依然として実現していない。経済の自由化が急激に始まった1980年代に、知識人・学生は共産党一党独裁の見直し、複数政党制、政治的言論の自由などを強く求めるようになった。しかし、87年、胡耀邦総書記は、実力者鄧小平によって、「民主化要求に対して軟弱な姿勢をとった」ことを理由に解任され、民主化の望みは一挙に暗くなった。その怒りは89年の胡耀邦の死去を悼む学生・大衆の集会が騒乱化し、天安門事件(第2次)となった。鄧小平政権はその動きを動乱と規定して軍隊で鎮圧するという弾圧を行い、政治の近代化は遠のいた。
 その後、江沢民、胡錦濤、習近平と続く中国共産党指導部は、中国を経済大国に成長させることに成功し、同時に軍事大国としても近隣諸国に脅威となる存在となった。経済と国防と科学技術の近代化は“見事に”達成された観がある。しかし、政治活動や言論などの基本的人権を保障する政治の近代化は依然として抑えつけられ、まったく遅れてしまっている(中国共産党はこれが進んだ形態なのだというのだろうが)。経済の自由化と政治活動の抑圧という、矛盾しているとしか思えない国家運営を中国共産党政権がアクロバティックで無理な体勢で、どうやっていくのだろうか。また、もし中国で政治の民主化が進むとしたら、どのように行われていくのだろうか。これからの世界史の動向に大きく関わることであろう。
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