火薬
中国の宋代に火薬を用いる兵器が考案された。13世紀に火砲が普及、さらにヨーロッパに伝えられて改良され、ルネサンスの三大発明に加えられている。
宋時代は、遼や西夏など異民族との戦争が絶えなかったので、多数の兵力を得るとともに、軍事技術の改良に努めた。その中で、火薬が兵器に使われるようになった。火薬は宋代の中国で発明され、羅針盤・活字印刷とともにイスラーム世界を通じてヨーロッパにもたらされ、いずれも実用化されて火砲とともに急速に普及し、ルネサンスの三大発明とされている。
その変化はヨーロッパだけでなく、西アジアにおいては、1514年のチャルディランの戦いで鉄砲で武装したオスマン帝国のイェニチェリ軍団のサファヴィー朝の騎馬部隊であるキジルバシュに対する勝利をもたらした。また日本には1543年に鉄砲と共に伝えられ、1575年には織田信長が長篠の戦いで武田の騎馬隊を破ったのも鉄砲の力が大きいといわれている。大砲は、中国では宣教師によって製造法と使用法が伝えられ、明から清への王朝交替の際に双方が新し武器として活用した。
中国の火薬
火薬の発明 中国には早くから方術(神仙術)家による一種の錬金術でもある煉丹術が発達しており、彼らはさまざまな物質を混合させてると化学変化を起こすことを知っていた。4世紀前半、『抱朴子』を書いたる葛洪は不老不死の仙薬を造ろうとさまざまな研究をしたことで知られる。そのなかから7世紀ごろに硝石、硫黄、木炭から黒色火薬をつくることが始まり、11世紀の宋代に武器に用いられるようになった。(引用)仙薬を合成する方術家の成果の中、特に重要なものは火薬の発明である。丹砂や金とともに、方術家たちは硝石や硫黄を貴重なものと考えてきた。硝石は硫酸ナトリウムの芒硝と混同されてきたが、6世紀初めの陶弘景の『神皇本草経』では、硝石と芒硝との区別をはっきり書いている。陶弘景もまた道家に属する学者であった。ついで唐の初期、7世紀の孫思邈(そんしばく)は硝石といおうとの混合物がはげしく燃えることを注意している。道教の経典を研究した中国人学者馮(ふう)家昇氏は、硝石、硫黄、木炭の三種を混合する黒色火薬が唐代につくり出されたことを立証している。いうまでもなく、火薬は中国人が世界にさきがけて発明したものであるが、それが道教の神秘的なふんいきの中から生まれたことは、科学と神秘思想とのつながりを考える上にきわめて興味のある問題である。<藪内清『中国の科学文明』1970 岩波新書 p.79>宋代の火薬 火薬とは、硝石・硫黄・木炭を混合した黒色火薬のことで、11世紀の『武経総要』などの書物にその製法が書かれている。はじめは竹筒に火薬を詰めて矢を飛ばすという簡単な火矢(火箭)に使われていたが、次第に爆発力が増し、12世紀には金と北宋の戦いで使用されるようになり、13世紀には本格的な武器としてモンゴルと金の戦争で広く使われるようになった。元の日本遠征を描いた『蒙古襲来絵詞』にも火薬を爆発させて火玉を飛ばす武器が「てつはう」として描かれている。 → 宋代の文化
ヨーロッパへの伝播
ヨーロッパへの火薬の伝来は、モンゴル帝国のバトゥのヨーロッパ遠征の時と考えられるが、十字軍時代にイスラーム軍との戦闘を通じてヨーロッパに知られたともいわれている。正確なルートは判っていない。14世紀前半にドイツで火薬が作られ始め、百年戦争を通じてヨーロッパでの火砲(大砲・鉄砲)の発達が著しかった。Episode 修道僧と火薬
14世紀の中頃、ドイツのニュルンベルクかフライブルクに住んでいたフランシスコ会の修道士ベルトルト=シュワルツは、修道院の近くに住む農民のために、いつも薬を調合していた。(引用)あるとき、イオウと硝石と木炭をまぜたくすりをつくっていた。たぶん彼はそれぞれを順に乳鉢に入れてすりくだいたあと、注意深くまぜあわせたことだろう。彼は乳鉢にそれを入れたまま、大きな丸い石を上にのせて、そのままほうっておいた。少したって、くらくなったので、あかりをつけようと思った。そこで火打ち石を打ったところ、火花がいくつかの乳鉢の中にとびこんだ。なかのものに火が付き、たちまちドーンと大きな音がして、石はものすごい力でほうり上げられ、建物の屋根をつきぬけて外へ飛びだした。ベルトルトがショックから気をとりなおして、あたりをみると、乳鉢はからっぽになり、頭上の屋根には石が通りぬけた丸い穴がすっぽりとあいていた。<サトクリフ/市場泰男訳『エピソード科学史』Ⅰ化学編 1971 現代教養文庫 p.37-39>この修道士は、偶然の出来事から火薬を発明し、それを戦争に利用しようと思いつき、袋に入れた火薬を導火線で爆発させる実験をし、その威力で地震が吹き飛ばされて頭をぶつけて死んだという。これは作り話に尾ひれが付いたものだろう。
火砲の出現
火薬を使う武器を総称して火砲という。火砲は大砲から始まったが、それは始めは大音響で敵を驚かすような使い方が主であったようだ。しかし、鉄で砲身を作ることができるようになると、城郭を攻撃する際に威力を発揮するようになり、大々的に使われるようになった。百年戦争で使われ始めたが、大砲が決定的な力を発揮したのが1453年のコンスタンティノープル陥落の時であった。 敵を殺傷する武器としての鉄砲は、1424年の火縄銃の発明から始まるとされているが、その起源についてはさらに遡る説もあり、未確定である。この発明によって従来の戦争の主力であった騎士や騎兵に代わって鉄砲を持つ歩兵が戦闘の主役になるという、大きな軍事革命をもたらした。15世紀末から長期化したイタリア戦争が軍事革命を一気に推し進めた。同時に進められていた、スペインのコンキスタドールによる新大陸征服も火砲と火薬の力で行われた。本国から大砲と火薬の供給を止められたコルテスは、それらを現地で調達している。その変化はヨーロッパだけでなく、西アジアにおいては、1514年のチャルディランの戦いで鉄砲で武装したオスマン帝国のイェニチェリ軍団のサファヴィー朝の騎馬部隊であるキジルバシュに対する勝利をもたらした。また日本には1543年に鉄砲と共に伝えられ、1575年には織田信長が長篠の戦いで武田の騎馬隊を破ったのも鉄砲の力が大きいといわれている。大砲は、中国では宣教師によって製造法と使用法が伝えられ、明から清への王朝交替の際に双方が新し武器として活用した。
火薬のもたらしたもの
火薬と火砲の殺傷力は、歓迎されたわけではなかった。それによって働き場を失った騎士たちは火薬の使用を正々堂々とした闘いへの明白な違反として告発した。いわばそれは「卑怯な飛び道具」だった。1500年ごろ、ある著述家は次のようにいっている。(引用)人間を破壊するために考案されたすべてのもののなかで、最も極悪非道なのは大砲である。これは名もわからない一ドイツ人によって発明された。……この発明にかかわらず、彼は自分の名を知られないという幸運な目にあっている。……さもなかったら、彼はこのいまわしい考案に対し、この世がつづくかぎり、のろわれ、悪しざまにいわれたにちがいない。<サトクリフ/市場泰男訳『エピソード科学史』Ⅰ化学編 1971 現代教養文庫 p.42>16世紀でもやはり、新しい破壊の武器の出現はおどろき、苦しみ、非難をまきおこした。すっと後になって、1915年に毒ガスがはじめて使われたとき、また1945年に原子爆弾が出現したとき、同じことが繰り返されたように。<サトクリフ『同上』 p.43>