都市
人々が農業生産から分離して集住し、政治・宗教・文化などの拠点として生まれ、文明の形成の舞台となった。それ以後、さまざまな都市が出現、大きく変貌しながら現在に至っている。
世界史上の都市
都市は、散在的な農村に対して、ある共通の要素によって人々が集住し、一定の機能を持つ地域と考えることができる。世界史上の都市にはさまざまであるが、都市を形成させた要素で分類すれば、政治都市・商業都市・産業都市・宗教都市などがあげられよう。また、文化的、学問的などの集中した文化都市が形成された場合もある。また都市の構成員である市民は、自立的傾向を持つことが多く、都市は常に自治的であることが多かった。その典型は古代ギリシアのポリス、古代中国の邑などに始まり、中世ヨーロッパのコムーネなど、都市国家とされる場合もある。都市はこのように権力を生み出すとともに、領域国家や世界帝国に抵抗し、都市同盟を形成することもあった。
都市は権力を生み出したことと共に、文明の舞台となったことも世界史上の重要な役割であった。古代オリエントやインダス文明、中国文明が都市で生まれただけでなく、イスラーム文明も都市文明としての性格が強く、中世ヨーロッパのキリスト教文明やルネサンス以降の近代ヨーロッパ文明も都市を舞台に形成された。英語で文明を意味する civilization は、18世紀にラテン語の civis (市民)や civitas (都市)からつくられた造語である。
世界史上の都市の歴史をたどってみよう。
1.古代文明と都市
都市の形成
オリエント世界の河川流域やオアシス地帯で、人々は麦や豆類、ナツメヤシなどの栽培農業を営むようになった。特に大河の流域に生まれたメソポタミア文明では潅漑農業が行われるようになって、大規模な定住がすすみ、前3500年代から都市が形成されるようになった。前3000年紀にはメソポタミア南部のシュメール人が築いたウル・ウルクなど神殿を中心に神官や官僚と民衆との階層をもつ都市国家を形成し、金属や文字の使用などとともに文明の段階への移行の標識となった。オリエントの都市文明はエジプトでも見られ、ナイル川流域に多くのノモスといわれる都市国家が形成された。オリエント世界の都市国家は抗争をくり返すうちに広大な領域をもつ領域国家に組み込まれて行き、世襲の支配者が専制的に支配する王朝国家に統合されていった。このような都市の形成は、インダス文明や中国文明にも見ることができる。インダス川流域にはモエンジョ=ダーロ・ハラッパーが代表的な都市遺跡である。中国文明では黄河流域に邑といわれる城郭都市が形成され、やがてそれらの都市を統合した殷王朝が出現した。周の封建制度のもとで各地の諸侯はそれぞれ国を支配していたが、春秋・戦国時代になると互いに烈しく争う中で拠点となった都市はさらに堅固な城壁をもつ城郭都市へと発展した。
都市革命 このような都市の出現を、20世紀のイギリスの考古学者ゴードン・チャイルドは、人類の第一の変革、定住と農耕への移行という新石器革命に続いて起こった第二の変革として捉え、「都市革命」と言い表した。それは、生産経済への移行に伴って余剰の生産物が富として蓄積されたことによって、社会的分業が生まれたことを意味している。
ギリシア・ローマ・中国の都市
地中海世界では、まずエーゲ海域に果樹栽培や牧畜を基礎とした社会が生まれ、彼らは海上交易に乗りだし、商業を発達させた。特にギリシア人は南下する過程で、いくつかの集落が連合し、アクロポリスを中心に集住して都市国家を建設した。ギリシアの都市国家=ポリスの中核は重装歩兵としてポリスの自衛を担った自立した市民であり、彼らは奴隷所有者として生産にはかかわらず、アゴラなどでポリス政治に直接参加した。代表的なポリスであるアテネでは、典型的な民主政を発展させたが、スパルタでは民主制ではなく王政の下で軍国主義体制が取られた。ローマもそのような都市国家から始まった。しかし、次第に他の都市国家を従え、イタリア半島を統一、さらに地中海世界を支配する世界帝国となった。その過程で、ローマは都市を植民市・自治市・同盟市に分け、それぞれ異なる権利を与えて、分割統治を行った。
はじめて中国を統一した秦の始皇帝は、黄河支流の渭水中流に宮殿を中心として整然と官衙が並び、ほぼ長方形の城郭で囲まれた都城として咸陽を建設した。その後、漢王朝はその地に新たに長安城を建設、強大化が進み、後漢時代には黄河中流に洛陽が建設された。以降の中国では長安と洛陽の二都を軸に歴史が展開していく。
帝国と都市
アレクサンドロス大王は、征服地に次々とギリシア人を入植させ、植民都市としてアレクサンドリアを建設した。エジプトのアレクサンドリアがその代表的な例で現在まで存続している。ローマ帝国のローマやコンスタンティノープル、漢帝国の長安や洛陽など、世界帝国の首都となった都市はいずれも城郭都市が発達したもので、皇帝の王宮を中心とした政治都市であると同時に、帝国支配領域の情報と文化が集まる文化都市でもあった。またローマ帝国は属州の支配拠点にローマ風の都市を建設したが、それらがロンディニウム(ロンドン)・ルテティア(パリ)・ウィンドボナ(ウィーン)などの起源となっている。
イスラーム帝国は聖地としてのメッカとメディナは宗教都市の典型であり、さらにカリフの居城としてダマスクスやバグダード、カイロ、コルドバなどが宗教都市と政治都市の性格を併せ持つ都市として建設された。また聖戦を展開して支配領域を拡大する過程で、バスラ・クーファ・フスタート(後のカイロ)・北アフリカのカイラワーンなどの軍営都市(ミスル)を建設した。これらの都市はネットワークで結ばれ、軍隊の移動、帝国の命令の伝達だけでなく、商品の移動、メッカへの巡礼、学問の旅が頻繁に行われた。イスラーム都市にはモスクを中心としてマドラサ(学校)、キャラバンサライ(商人宿)、スーク(市場)などが設けられ都市文明としてのイスラーム文明が形成された。イスラーム文明は都市的な文明であることが特徴であり、都市の施設は信者である商人たちの寄進からなるワクフによって運営された。
唐帝国の都長安は、帝国の領土の周辺への広がり、東西交流の活発化に伴い、ゾロアスター教やイスラーム教、キリスト教の教会などが混在する国際都市として繁栄した。その都城制度は冊封体制のもとで東アジアにも影響を与え、日本の平城京、渤海の東京城などはそれに倣って造営された。
2.中世都市の諸相
中世都市
中世ヨーロッパでは、ローマ=カトリック教会の権威の確立と共に、かつてのローマ帝国の都であったローマは教皇庁の所在地という宗教都市として絶対的な地位に就き、司教の在任する教会を中心とした司教座都市が各地に生まれた。そして市場が次第に規模を大きくしていって都市が形成され、遠隔地交易の中継地や取引地として新しい商業都市に成長するようになった。ヨーロッパではシャンパーニュ地方や北イタリアの都市がそれにあたる。これらの都市ははじめは封建領主の支配を受けていたが、次第に利害を異にするようになり、城郭を設けて自治都市が成長するようになる。ヨーロッパの都市で、○○ブルク(ドイツ)、○○ブール(フランス)、○○バラ、○○バーグ(共にイギリス)という語尾がつく地名が多いが、これらはいずれも「城塞」を意味している。また、市民を意味するブルジョワという語も「城内の人」と言うのが語源である。東ヨーロッパではコンスタンティノープルとモスクワが政治都市としてより、ギリシア正教会の拠点としての宗教都市であった。
注目すべきはイスラーム圏の都市であり、メッカ、ダマスクス、バグダード、カイロなどカリフの居城を中心とした政治都市であると共に多くのモスクをもつ宗教都市でもあり、市場(スークまたはバザール)で商人の行き交う商業都市でもあるという複合的要素を有していた。これらのイスラーム圏では信者(ムスリム)による互助組織であるワクフの制度が都市を支えていたことも特徴的である。
中国の各王朝も洛陽・長安以外に、開封(汴京)、南京、北京などの都城が政治都市として建設され、はじめは城郭内の市域だけが繁栄していたが、唐末以来、商業に対する規制がゆるみ、城壁の外や交通の要地に草市や鎮などが現れる。宋の都の開封は商業網の中心に位置して、物資の流通の盛んで、大いに繁栄した。
中世の都市は、ヨーロッパでは教会・修道院、中国では仏教寺院や道観(道教の寺院)、そしてイスラーム世界ではモスクに隣接して設けられることが多く、宗教都市としての要素が多かったが、中世の後半になると、ヨーロッパと中国の双方において、政治都市・宗教都市とは別に、人々が集まって定期的に交易を行う定期市などが発達して商業都市が出現したことが特徴的である。
自治都市・都市同盟
ヨーロッパでははじめは封建領主の支配を受けていた中世都市が、商工業が発達するとともに自治を求めるようになりった。北イタリアでは10~11世紀の十字軍時代の以降、自治権を獲得した自治都市が出現した。ヴェネツィア・ジェノヴァなどの港湾都市、ミラノ・フィレンツェなどの内陸都市がその例であり、いずれも東方貿易で繁栄し、都市共和国(コムーネ)として発展していった。特にヴェネツィアは海外に領土を持つなど都市国家として強い力を持っていた。一方、ドイツでは皇帝から特許状を得て皇帝直属の自由都市(帝国都市)として諸侯と同等の力を持つようになった。これらのヨーロッパ中世の自治都市も、周囲を城壁でかこみ、その中では市民が自由な都市生活を営み、自治を行っており「都市の空気は自由にする」と言われていた。都市の自治はギルドと呼ばれる同業組合の構成員である親方に握られていた。上層市民の中には、都市国家の権力者の地位を独占するものも現れた。
これらの都市は商業圏を維持・拡大し、世俗の国王や皇帝、封建領主との争いにそなえて都市同盟を結成した。ハンザ同盟やロンバルディア同盟がその例であり、これらは独自の軍隊を持つなど、政治勢力としても大きな存在であった。
中国の都市においても、行・作といわれる同業組合がうまれ、そこでは手形から発生した紙幣が取引に使われるようになった。しかし、ヨーロッパのような都市国家は形成されなかった。
インドから東南アジアのインド洋交易圏、南シナ海・東シナ海交易圏では盛んな海上交易を背景に、港市国家が形成された。
3.都市の変容
新たな商業都市の繁栄
大航海時代にアメリカ新大陸との交易や、インドなどのアジア地域と海路で結ばれたことで、ヨーロッパの経済の繁栄は、地中海から大西洋西岸に移った。この商業革命で急速に成長した都市がポルトガルのリスボン、スペインのセビリャ、さらにネーデルラントのアントウェルペン(アントワープ)、オランダのアムステルダム、ロッテルダムなど大西洋東岸の港湾都市であった。またロンドンは国際金融の中心地としての地歩を確立していった。一方アメリカ新大陸ではボストンやニューヨークが移民の受け入れ口として人口を急増させていった。
近代の政治都市・産業都市
ヨーロッパにおいて中世の終わり頃からの封建社会の崩壊に伴い、主権国家が形成されてくると、ロンドンやパリ、ウィーンなどはそれぞれ政治都市としての役割をさらに強くしたが、プロイセンのベルリンやスペインのマドリード、ロシアのペテルブルクのように新たな政治都市として造営された都市もみられる。産業革命と都市 都市周辺のマニュファクチュアが発展すると、人口の農村から都市への移動がはじまった。特にイギリスでは17世紀頃から、囲い込みによって土地を無くした農民が都市に流入するようになった。都市の様相を一変させたのはイギリスにはじまる産業革命による人口の都市集中であった。マンチェスターやバーミンガムなど新たに生まれた工業都市に人口が集中しただけでなく、それまでの伝統的な生活様式は大きく変化し、現代につながる都市問題が発生することとなった。都市への人口集中と生活環境の悪化は、しばしば新たな疫病の蔓延の要因となった。
植民地支配と都市
アジアではヨーロッパ諸国の植民地支配とのかかわりで、その拠点となった都市の膨張が始まった。インドではムガル帝国の都デリーやアグラに代わって、イギリス東インド会社の拠点とされたマドラス(現在のチェンナイ)・ボンベイ(ムンバイ)・カルカッタ(コルカタ)がそれにあたる。またマニラはスペインの、シンガポールはイギリスの、ジャカルタはオランダの植民地支配の拠点として建設された。中国では香港がそれにあたり、またアヘン戦争後に開かれた開港地である上海は、それ以後急速に成長し、現在のアジアの大都市となっている。