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ハーヴェー

17世紀イギリスの医学者。1628年、血液の循環理論を証明した。ピューリタン革命期にチャールズ1世の侍医となった。

ハーヴェー
William Harvey 1578-1657
 17世紀の科学革命を代表する人物の一人。イギリスのフォークストンに生まれ、ケンブリッジ大学で学び、後にイタリアのパドヴァ大学でも学んだ。ロンドンで医院を開業した後、王立医科大学・オックスフォード大学の教授を歴任し、解剖学・生理学を教えた。また、ジェームズ1世チャールズ1世の侍医となったが、ピューリタン革命でチャールズ1世が処刑されてからは不遇であった。その後は研究と実験のみに没頭し、多くの著作を残した。
 彼の業績は、血液が循環する原理を発見し、その原動力が心臓にあることを観察と実験で証明したことである。それは、古代のガレノス以来の医学を一変させる発見であり、現代医学の基礎を作ったことにある。また、ハーヴェーは血液循環の発見だけでなく、生物の生殖・誕生などの生命科学に関してもさまざまな実験を行い、フランシス=ベーコンとともに、近代的な科学の発展の基礎を築き、同時代のデカルトなどにも影響を与えた。

ハーヴェー以前の説

 ハーヴェーによって血液の循環と心臓の働きが明らかにされるまでは、どのように考えられていたのだろうか。ハーヴェー自身も研究の対象としたアリストテレスにおいては次のように説明されていた。
 食物は消化管で「調理」され、血管をとおって心臓に到達し、ここで血液に精製され、さらに動脈によって身体の前部、静脈によって後部へ栄養として送られる。心臓は生命の原理がやどる器官で、栄養だけでなく精神活動やさらに感覚と運動の中枢でもある。血液の材料になる液体が心臓の熱で膨張すると、心臓自体が拡張し、それにともなって胸郭が広がり肺臓が膨らんで空気が体内に入ってくる。やがて心臓の収縮とともに胸部も狭まり、肺臓の空気は体外に出ていく。・・・<中村禎里『血液循環の発見』岩波新書 p.33>
 紀元前後に活躍したガレノスは、ギリシアからアレクサンドリア時代までの解剖学・生理学を大成し、次のように説明している。消化管で吸収された養分は肝臓で血液に調整され、肝臓から上下に出る静脈をとおって身体各部に運ばれる。また呼吸によって空気は肺臓にとりこまれて生命精気に変化し始め、左心室で生命精気を含んだ血液となり、動脈をとおって身体各部に補給される。心臓は生命精気を作り出し、それをフイゴのような働きで全身に送り出す器官であるが、精神活動の中心になるのは脳である。・・・<中村 p.36-38>

ハーヴェーの血液循環説

 ハーヴェーは1628年に発表した『心臓と血液の運動』で、「心臓の固有運動が自主的収縮であり、この収縮によって血液を動脈に圧し出す」ことを論証した。
  • 心臓の筋肉は骨格筋と同じ繊維でできており、高等動物が下等動物より、成人の方が胎児より、左心室の方が右心室より筋肉が発達している。
  • 魚類の心臓を取り出し切り刻んでも周期的な運動をただちにはやめない。
  • 心臓が収縮する時、動脈は拡張する。心室の拍動がやむと動脈の拍動も泊まる。このことから心室に収縮によって血液が押しだされていることがわかる。
  • 心臓の弁が血液の逆流をふせいでいる(この点はガレノスも指摘している)。
  • 心臓→大動脈→動脈→静脈→大静脈→心臓、という血液の流れは、それぞれのあいだで結紮(ケッサツ。糸で縛ること)すると心臓から遠い方の血流が止まる。
 ハーヴェーはこれらの事実を、ヘビを始めとする128種類に及ぶ動物の観察と実験を経て実証した。<中村 p.74-83>

国王の侍医ハーヴェー

 「私たちが就職や転職を志したり、それを迫られたりしたとき、うんざりしながら履歴書に記入するていどの経歴でさえ」よくわかっていない、と『血液循環の発見』の著者中村禎里さんが云っているように、ハーヴェーの生涯の詳細は記録が少ないため、よくわかっていない。しかし、ハーヴェーは「科学と社会との両方における二重の変革期に生をうけた」<中村 p.211>人物として興味深い。
 ハーヴェーは、ロンドンの東南、ドーヴァー海峡に面したケント州のフォークストンに生まれ、家は代々牧羊業を営み、父は運送業も経営する新興のジェントルマン階層に属していた。地域的にも階層的にもピューリタン革命では議会派となって不思議はないが、何故かハーヴェーは王党派となった。ハーヴェーは医師・学者としての上昇志向が強かったらしく、1604年に結婚した相手はジェームズ1世の侍医ブラウンの娘であった。その縁が功を奏したか、ハーヴェーは医師会での地位を着実に上昇させ、1618年にジェームズ1世の侍医となった。次のチャールズ1世からも信任され、1625年に侍医、1631年には常勤侍医となり、国王の忠実な支持者として生涯を送ることになった。ハーヴェーは国王侍医として、当時行われていた魔女裁判に関わっていることが注目される。

ピューリタン革命とハーヴェー

 ハーヴェーが主著『心臓と血液の運動』を発表した1628年は、議会が『権利の請願』を採択し、チャールズ1世に提出した年であった。翌年、国王は議会を解散し、専制政治を推し進め、ピューリタンとスコットランドの長老派に対する弾圧も強めていく。1630年代、ハーヴェーは王家の一人に随行し、ヨーロッパに渡るが、まさに三十年戦争の惨禍が広がっていた時期であり、ハーヴェー自身もヴェネツィアで身柄を拘束されたりしている。
 1639年、ハーヴェーは王室の上位常勤侍医に昇進し、宮廷のあるホワイトホールでの居住が許され、さらにチャールズ1世のスコットランド遠征に随行している。1642年10月、エッジヒルで議会軍と国王軍が衝突、いよいよ内戦が始まると、ハーヴィーも前線にあり、炸裂弾を浴びながら二人の王子を守った。チャールズ1世がオックスフォードに移り、しばらく内戦が停止されると、ハーヴェーはオックスフォード大学の学者と研究の交流を行い、国王の推挙で大学学長に就任している。
 クロムウェル新型軍を編成して形勢が逆転し、1645年6月1日のネースビーの戦いで決定的な敗北を喫したチャールズは翌年4月27日の朝、召使いの姿に変装してオックスフォードを脱出したが、スコットランド軍に投降した。ハーヴェーは学長職を解かれ、王に荷担したかどで2000ポンドの罰金を科せられた。一時は貴族院に嘆願してとらわれの国王に接触したが、結局、王を守ることはできず、1649年末、チャールズ1世は処刑された。
 1650年2月、議会は国王に与(くみ)した人物をロンドから追放したため、周囲20キロ以内に入ることができず、70歳を超えていたハーヴェーも国王派の残党として不遇であった。その後は不明な点も多いが、痛風の発作に悩みながら、研究を続け、『動物の発生』などの著作を残している。晩年にはその医学への功績が認められてロンドンに戻り、医師会にも復帰し、名誉が回復され、1657年6月3日、脳溢血で死去した。<以上、中村禎里『血液循環の発見』岩波新書 による>

Episode ハーヴェイの痛風

 ハーヴェイと同時代のジョン=オーブリーは優れた伝記作家として知られるが、その『名士小伝』にはハーヴェイの小伝と、彼と接した思い出をいくつか書き残している。
(引用)彼がこう言われるのを聞いたことがある。あの血液の循環についての著書が世に出た後、開業成績がひどく低下してしまった。そして世間の俗人は、彼の頭がおかしいと思い、医者たちもすべて彼の意見に反対し、彼に悪意を抱いた。反論を書いた人も多かった。たとえば、パラケルスス派のプリミッジ博士など。いろいろの騒ぎがあったあげく、ほぼ二、三十年して、この説は世界のあらゆる大学で受け入れられた。だからホッブズ氏がその著『肉体ニツイテ』で述べたように、彼はおそらく自分の学説が生前に確立されるのを見るまで生きたただ一人の人であろう。<オーブリー『名士小伝』冨山房百科文庫 p.211>
また、こんな一節もある。
(引用)彼はしばしば痛風のために大いに悩まされた。そして、彼流の治療法はこうである。まず両脚を浸す、そして冷たくして死にそうになったところで、ストーブのそばに行く。そうすると痛風が去るのだ。
 彼は興奮性の人で、思考が活動している時には往々眠れないことがあった。そういうときには寝床を出て、下着のまま部屋の中を歩きまわり、すっかり冷えてしまうまで、つまりガタガタ身震いが始まるまでそうしている。それから寝床に戻ると、たいそう快適に眠れる、と私に話してくれた。
 私は、彼がよくコーヒーを飲んでいたのを覚えている。彼や弟のエライアブが飲んでいたのは、まだロンドンでコーヒー店が流行する以前のことである。・・・<オーブリー『名士小伝』冨山房百科文庫 p.212>
 ハーヴェイは、国王の侍医だっただけでなく、開業医としても同時代のホッブズフランシス=ベーコンを顧客としていた。彼らの話題も『名士小伝』に載せられている。