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王権神授説

ヨーロッパの絶対王制国家の権力は神から授かったものとする政治思想。

 国王の権力は神から与えられた神聖不可侵なものであり、反抗は許されないとする政治理念。主権国家体制の形成期の、いわゆる絶対王政国家において、国王およびそれに依存する貴族や聖職者によって体制維持の理論として展開された。

イギリス

 イギリスでは17世紀のステュアート朝チャールズ1世に仕えたフィルマーは、王権を『旧約聖書』で人類の祖とされるアダムに由来する家父長権であると論じ、王権神授説を正統な王権の根拠とした。その前の国王ジェームズ1世も強固な王権神授説論者であり、自ら『自由なる君主国の真の法』を出版している。
 このような王権神授説を根拠とした王権の絶対化に反対し、当時の議会で活躍したエドワード=コークは、コモン=ロー(一般的慣習法)の理念を掲げ、王権に対する法の優先を説いて、国王と言えども法の支配を受けなければならないと主張し、1628年権利の請願を起草した。その後イギリス革命の第一段階としてピューリタン革命が進行し、チャールズ1世が処刑され、クロムウェルの独裁が行われるという混乱が続くなか、ホッブズは個人と国家の関係を「契約」と捉え、国王権力の正当性をそこにおいて王権神授説に代わる国家観を提示した。ホッブズは王政を否定はしなかったが社会契約説の先駆的な理論となった。
 王政復古期のチャールズ2世ジェームズ2世も王権神授説の掲げて王権の回復を目指したが、1688年名誉革命によって立憲君主政が成立、国王といえども国法と議会に従属するという大原則が確立した。立憲君主政を理論化し、王権神授説を否定したのがジョン=ロックである。こうして王権神授説から脱却したイギリスは、政治権力を議会から委嘱された内閣が行使し、政党が議会の多数を目指して競うというイギリス議会制度を成立させた。

フランス

 フランスでは16世紀のユグノー戦争期のジャン=ボーダンは『国家論』で国王が立法権を持つ主権者であると位置づける「絶対王政」を理論づけた。また17世紀に「朕は国家なり」と端的に言い表したルイ14世に仕えたボシュエは神学上の理念として王権神授説を説いた。封建社会から主権国家の出現の際には有効なイデオロギーであったが、市民階級が台頭すると自由と平等を抑圧する理念として否定され、18世紀後半には啓蒙思想の中でロックやルソーによって唱えられた社会契約説が近代的な権力を支える理念とされるようになり、王権神授説は消滅した。
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