ステュアート朝
14世紀イギリスの王朝。絶対王政を強めたため議会と対立、ピューリタン革命で倒された。王政復古で復活したが、名誉革命で立憲君主政を受けいれる。
ステュアート朝は、1371年以来スコットランドの王朝であったが、1603年そのジェームズ6世がイングランド国王を兼ねてジェームズ1世となってから、イングランドの王朝ともなる。絶対王政の強化を図り、ジェントリ層を中心とした議会と対立、1642年にピューリタン革命が起こって倒されるが、1660年に王政復古。名誉革命ではステュアート家のメアリ2世とその夫のオランダ総督ウィリアム3世の共同統治となり、立憲君主体制を受けいれた。その次のアン女王が継嗣がなく死去したので1714年に断絶し、ハノーヴァー朝に交替した。 → 17世紀のイギリス
次のチャールズ1世がピューリタン革命で処刑されていったん途絶えるが、その子チャールズ2世の時に王政復古、ジェームズ2世が後を継ぐ。名誉革命ではジェームズ2世の娘のメアリとオランダ総督であったその夫のウィリアム3世が共同統治。ウィリアム3世の次にメアリの妹のアンが王位を継承し、1707年にイングランドとスコットランドが合同する。アン女王が1714年に継嗣無く死去したのでドイツのハノーヴァー選帝侯がジョージ1世として迎えられ、ハノーヴァー朝となる。 → イギリス(5)
スコットランドの王朝
ステュアート家はもともとはスコットランド王の財務長官であるステュワードという職掌からでたもので、1371年からスコットランド王国の王位を継承し、それもステュアート朝といっている。イングランドとは戦争が続いていたが、イングランドのテューダー朝のヘンリ7世の時に和平が成立し、その娘マーガレットがスコットランド国王ジェームズ4世と結婚し、両家の関係ができた。イングランドの王朝
イングランドのエリザベス1世が未婚のまま亡くなってテューダー朝が途絶えた1603年、ヘンリ7世の血を引き継いでいるスコットランドのステュアート朝の国王ジェームズ6世がイングランド国王をも継承し、ジェームズ1世として即位した。ここから始まるイングランドの王朝もステュアート朝という。次のチャールズ1世がピューリタン革命で処刑されていったん途絶えるが、その子チャールズ2世の時に王政復古、ジェームズ2世が後を継ぐ。名誉革命ではジェームズ2世の娘のメアリとオランダ総督であったその夫のウィリアム3世が共同統治。ウィリアム3世の次にメアリの妹のアンが王位を継承し、1707年にイングランドとスコットランドが合同する。アン女王が1714年に継嗣無く死去したのでドイツのハノーヴァー選帝侯がジョージ1世として迎えられ、ハノーヴァー朝となる。 → イギリス(5)
ステュアート朝の国王
- ジェームズ1世(在位1603~25年) 王権神授説を信奉して議会と対立し、イギリス国教会の立場からピューリタンに対する迫害を行った。1607年、アメリカ大陸の最初の恒常的な植民地ヴァージニアを建設、またピューリタンのピルグリム=ファーザーズの北米に移住がこの時行われた。
- チャールズ1世(在位1625~49年) 前代につつき王権神授説を掲げ、ピューリタン弾圧を強めたため、議会との対立深刻となる。議会は1628年、権利の請願を提出。スコットランドの新教徒の反乱を鎮圧する経費を得るために議会を招集したが、対立激しく、すぐに閉鎖。以後、王党派と議会派の対立が激しくなってピューリタン革命が勃発した。1645年にはネースビーの戦いでクロムウェルの指揮する議会軍に敗れ、47年に捕らえられ、1649年1月に処刑された。
- この間 ピューリタン革命・クロムウェルの独裁
- チャールズ2世(在位1660~85年) 革命でフランスに亡命していたが、クロムウェルの死後、1660年に王政復古を実現。英蘭戦争を再開、一方でフランスのルイ14世と結んでカトリックの復興をもくろみ、反発した議会が審査法と人身保護法を制定した。子がなく弟のジェームズもカトリック教徒だったので、王位継承を巡ってトーリ党とホィッグ党という政党が生まれる。
- ジェームズ2世(在位1685~1688年) 兄チャールズ2世以上の反動政治を行ったため議会と対立を強める。議会はトーリ党とホイッグ党が協力し、1688年、オランダからオラニエ公ウィレム3世とその妻メアリを招聘、ジェームズはフランスに亡命。これを名誉革命という。その後アイルランドに渡り再起を期すがウィリアム3世に敗れる。
- メアリ2世(在位1689~94年)・ウィリアム3世(在位1689~1702年) 名誉革命で共同統治。1689年、議会の決議した権利の宣言を承認して即位。権利の章典を制定。ウィリアムはステュアート家出身ではないがメアリがジェームズ2世の娘なのでステュアート朝に加える。ウィリアムはオランダ総督であると共に1689年にイングランド王を兼ねた。この間はイギリスとオランダは同君連合を構成し、特にフランスのルイ14世とのファルツ戦争、北米でのウィリアム王戦争を同時に戦った。またウィリアム3世はホイッグ党に内閣を組閣させ、政党政治への道を開く。またイングランド銀行を設立して国家財政の再建を図る。
- アン(在位1702~14年) ウィリアムとメアリに継嗣が無く、メアリの妹(ジェームズ2世の娘)アンが即位。父と違いプロテスタント。フランスとのヨーロッパ大陸におけるスペイン継承戦争と北米植民地におけるアン女王戦争で勝利し、このころからイギリスの植民地帝国が発展する。1707年には、イングランド王国とスコットランド王国が合同し大ブリテン王国を成立させる。ステュアート朝としては最後の王であるが、大ブリテン王国としては最初のイギリス王となった。