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朴泳孝

朝鮮王朝末期に活躍した開化派の政治家。1884年、金玉均らと甲申政変を起こしたが失敗し、日本に亡命。その後、朝鮮に戻り、親日派としてたびたび要職に就いた。

朴泳孝

朴泳孝 1861-1939

 朝鮮王朝(李朝)の末期に、急進開化派(独立党)の中心人物として活躍した。金玉均らと甲申政変のクーデタを、日本の支援のもとで実行したが、清の介入を受けて失敗した。日本の世界史の授業ではかれの事績はこれだけになっているが、実はその後も重要な活動をしており、戦前期の日本と朝鮮・韓国の関係を知る上では欠かせない人物であるので、ここで説明を加えることとした。

開化派としての歩み

22歳で日本への使節となる 朴泳孝(パクヨンヒョ 1861~1939)は、金玉均と並んで朝鮮王朝末期の開化派の指導者とされているが、金玉均より10歳若く、開化派の中では最も若い世代に入る。しかし彼らの中で身分的に最も高いのが朴泳孝であり、彼は13歳で前国王哲宗の娘婿となっていた。1882年9月、壬午軍乱の謝罪使として日本に派遣された修信使の正使にわずか22歳の朴泳孝が選ばれ、金玉均らはその使節団の副使となったのは、そのような事情であった。なお、この使節が船中で急きょ朝鮮の国旗として作ったのが、現在の韓国の国旗太極旗だったといわれている。
開化派・独立党として この時の日本での体験が開化派を形成したと言ってもよいぐらいで、 金玉均(1882年から2度目の来日)は東京で福沢諭吉らに会い、その開化思想に影響を受け、多くの若者を慶応義塾などに留学させるきっかけとなった。朴泳孝も近代化に着手して15年目の日本をみて刺激を受けた。高宗・閔妃と保守派は、このころ開化派の力を利用しようとして、金玉均や朴泳孝を政権に参加させ、朴泳孝も帰国後、漢城府尹(知事)に任命され、首都の近代化にとりくむこととなった。朴泳孝の関心は軍政にも及び、日本の軍政に学んだ軍制改革をも構想した。
 しかし、壬午軍乱で宗主国である清の存在は動かしがたくなっており、金玉均・朴泳孝らの急進派が日本と結んで改革を進めようとしていることに警戒心が強まり、彼らは次第に中枢から外されるようになった。それにたいして開化派の中でも清と協力していこうという金允植、金弘集などは穏健派を形成、ここに開化派は分裂し、急進開化派は清との関係を断ち切り日本と結んで独立しようという主張を明確にしたことから、独立党あるいは日本党と言われるようになった。朴泳孝は急進派の最若手として盛んに活動した。
甲申政変 1884年12月、金玉均・朴泳孝ら急進開化派(独立党)は甲申政変を起こし、日本公使竹添進一郎の協力によって日本軍に守られ、閔氏一派の要人を殺害・排除するクーデタを実行し、清との関係断絶、門閥打破、近代的な諸改革の導入などを宣言した。しかし、清軍の迅速な介入で王宮を奪回され、権力奪取に失敗した。兄の朴泳教はこの時、清兵に殺され、朴泳孝は金玉均らと共に日本に亡命した。その後、閔妃政権によって反逆者として指名手配され、追及されることになった。

日本に協力した生涯

日清戦争 朝鮮での主導権をめぐって清と対立した日本は、1894年7月に軍隊を朝鮮王宮に入れて占領して、開化派親日政権の樹立を強要した。朴泳孝は日本から呼び戻され、金弘集内閣で内務大臣に登用された。朴泳孝は日本の元勲の一人井上馨から推薦されて入閣したと言われている。また内閣の首班となった金弘集は穏健開化派で活動していた人物であり、日本の後押しで清と保守派が排除され、開化派の内閣が成立したと言える。この内閣の下で、甲午改革といわれる改革が推進された。その背景には、朝鮮国内での社会矛盾の深化から、1894年2月から始まった東学の反乱(甲午農民戦争)が激しくなっているという状況があった。甲午農民戦争の鎮圧を口実にそれぞれ出兵した清と日本は1894年8月から本格的な日清戦争となった。
閣内での対立 金弘集内閣が甲午改革を進めることに抵抗したのが高宗閔妃だった。閔妃は内閣に分断を持ち込んで弱体化させようとして、なんと朴泳孝を味方につけた。朴泳孝は内部大臣であり、前国王哲宗の娘婿であったので自由に王宮に出入りできたので、閔氏は朴泳孝に近づき、住宅の斡旋をするなどの便宜を図って取り込んだ。かつて甲申政変では王宮を襲撃した張本人の一人である人物と手を結んで、内閣に影響力を及ぼそうとしたのだった。閔妃を後ろ盾とした朴泳孝は他の諸大臣に対して高圧的に自説を主張するようになり、内閣は対立が深まったため、95年5月、ついに金弘集総理大臣が辞職、朴泳孝が実権を握った。<木村幹『高宗・閔妃』2007 ミネルヴァ書房 p.237-238>
二度目の日本亡命 閔妃の目論見は成功したかに見えたが、今度はその両者に対立が生じた。それは宮廷の警備に当たっているアメリカとロシアの士官に訓練された親衛隊に代わって、朴泳孝が日本の士官に訓練された訓錬隊を充てようとしたことに閔妃が反対したことから起こった。閔妃は日本の勢力が宮中に及ぶのを恐れ、95年7月、朴泳孝に対し反逆罪の名目で逮捕状を出したのだ。そのため朴泳孝は再び日本に亡命した(1907年まで)。この事件の背景には日清戦争後に三国干渉が行われ、アジアにおける日本の勢力が後退したことから、朝鮮王宮の中で閔妃を中心とした親ロシア派が台頭していることがあった。日本公使井上馨に協力した朴泳孝は、高宗・閔妃のロシアへの接近を防ごうとしたが失敗したのだった。一部には朴泳孝は閔妃の殺害を謀っていたとも言われている。<姜在彦『朝鮮近代史』1986 平凡社選書 p.122/木村幹『前掲書』p.238-239 などによる>
 朴泳孝が日本に去った後、井上馨に代わる新たな日本公使として着任した三浦梧楼のもとで、1895年10月、閔妃暗殺事件が起きる。
韓国統監府に抵抗 日清戦争で清の朝鮮に対する宗主権を否定し独立国とすることに成功したものの、今度はロシアの朝鮮に対する進出が日本にとっての危惧となった。日本政府は三次にわたる日韓協約を締結し、日露戦争によってその立場を優位にさせた。1905年11月、韓国を保護国とし統監府が置かれた。高宗が不当な保護国化を国際世論に訴えようとして1907年6月にハーグ密使事件を起こし、その責任を取らされて退位することとなった。初代統監伊藤博文は韓国内政の安定のため同年7月に朴泳孝を親日派の大物として帰国させ、宮内大臣に任命した。しかし、朴泳孝は高宗の退位に頑強に抵抗したため、大臣を辞任させられ済州島に流された。
貴族院議員となる 日本が1910年韓国併合を行って始まった日本の植民地としての朝鮮は、35年間にわたって続いたが、その間、朝鮮人には選挙権は与えられていなかった。しかし、日本政府は朝鮮皇帝一族を日本の皇族と同様とすると共に、日本に協力的であった貴族層には、日本の貴族と同じく爵位を与えた。朴泳孝は長年の日本に対する協力を認められて、侯爵の爵位が与えられ、朝鮮総督府のもとでの朝鮮の自治機関である中枢院の顧問に推された。日中戦争中に日本の貴族院議員にも選出されている。つまり、日本の植民地となった朝鮮で日本帝国の支配層の一員となったのであるが、そのまま1939年に生涯を終えた。