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日清通商航海条約

日清戦争の講和条約である下関条約にもとづき、1896年に日清間で結ばれた不平等条約。清は日本に対する関税自主権を失い、治外法権を認めた。関税自主権の回復は1930年、治外法権の廃棄は1942年となった。

日清戦争後の日清通商航海条約締結

 日清戦争の講和条約として1895年4月に締結された下関条約第6条で日清修好条規は破棄され、新たに通商航海条約を締結することが定められた。その際、新たな通商条約は中国が西洋諸国と結んでいた条約を見本としなければならないとされた。この条項に基づいた交渉が日清間で行われ、1896年7月に日清通商航海条約が締結された。

不平等条約

 この日清通商航海条約は、日本が清国内での治外法権(領事裁判権、租界の設置)と、関税上の特権(清の関税自主権は無く、協定税率つまり両国の協定で関税を決める)などが認められ、片務的に日本が有利な不平等条約であった。さらにその他に、揚子江(長江下流域)の航行権、開市および開市において機械の製造工場を経営する特権が認められた。つまり、これによって日清関係は従来の日清修好条規による対等なものではなくなり、アメリカ・イギリスなど西洋諸国と同様の従属的な関係となったのだった。

条約改正の悲願

 清朝は1911年の辛亥革命によって倒れ、翌年、中華民国が発足した。中華民国は清朝が諸外国と締結していた不平等条約をそのまま継承したので、上海などの都市には外国の租界が置かれて中国の主権が及ばない状態が続き、不平等条約の破棄と諸外国との対等な関係の樹立は悲願となった。この日清通商航海条約も不平等条約の一つであった。
 しかし中華民国は孫文と袁世凱の勢力争いなどもあって安定せず、各地に軍閥が対等し内戦状態が続いたため、条約改正交渉はほとんど手をつけることができなかった。日清戦争を契機として始まった列強による中国分割は1898年に一気に進み、それに反発した義和団が蜂起したことから義和団戦争となり、諸列強と結んだ北京議定書で外国軍の駐留を認め、中国の主権はさらに侵害された。その後も日露戦争での日本の大陸侵出、第一次世界大戦に便乗した二十一カ条の要求、と続き中国の半植民地状態が深刻化していった。この間、北京の軍閥政府は外国資本の借款に依存したため、条約改正どころか、外国への従属を強めてしまった。日本軍の満州進出もそれに乗じるように進められた。

条約改正の進展

 1920年代になると国民党の基盤として中国国内の民族資本の成長が始まる一方、中国共産党も発足し、双方からナショナリズムが台頭した。一時期は1924年からの国共合作(第1次)で両者は協力したが、蒋介石政権は1927年の上海クーデタで共産党を排除し、主導権を握り、翌年には北伐を完了させ、国民政府による中国統一を曲がりなりにも実現させた。中国統一を達成した国民政府蒋介石政権は条約改正交渉に乗り出した。
関税自主権の回復 1928年から不平等条約の撤廃への動きが具体化し、まず関税自主権の回復がアメリカ・イギリスとの間で実現する。中国への経済進出をはかるアメリカが妥協したことが大きい。国民政府は日清通商航海条約に対してもすでに期限が切れているとしてその廃棄を要求したが、済南事件のために交渉は難航し、ようやく1930年5月に日華関税協定が結ばれ、これによって中国は開国以来苦しめられていた関税自主権を回復することができた。
治外法権の撤廃 治外法権の撤廃(租界の返還)は1931年の満州事変の勃発と日中戦争によって中断され、放置された。日本は治外法権を利用して租界や居留地でアヘン密売などに関わるものもあった。太平洋戦争開戦に伴って第二次世界大戦がアジアに波及し、1942年1月に中国が連合国共同宣言に加わったことを受けて、アメリカが1942年10月に不平等条約の撤廃に応じた。日本が1943年1月9日に汪兆銘政権との間で条約改正に応じると、欧米諸国も日本との対抗上、中国政府の蔣介石政府の条約改正要求に1月11日に応じたことで実現した。
 しかし汪兆銘政権の消滅、日中戦争の敗北によって日中間の条約は無効とされ、戦後の日本は中国に登場した中華人民共和国を承認しなかったので日中関係は断絶することとなり、日中国交正常化は1978年をまたなければならなかった。
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