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ラッセル

イギリスの哲学者で第一次、第二次大戦の前後で戦争反対を強く訴え、戦後は1955年にラッセル=アインシュタイン宣言で核廃絶を提言した。キューバ危機の回避、ベトナム反戦運動などでも一貫して平和の維持、実現に努めた。

Bertrand Russell
1872-1970

 バートランド=ラッセル(1872-1970)はイギリスの哲学者・数学者。第一次世界大戦から戦争反対を唱え、世界の平和に積極的な発言を始め、特に第二次世界大戦後の1955年アインシュタインと連名で発表したラッセル・アインシュタイン宣言は大きな反響を呼んだ。この宣言を契機にして世界の科学者による核廃絶のための国際会議であるパグウォッシュ会議が始まった。ラッセルは1950年に哲学の分野での業績に対しノーベル文学賞を受賞しており、世界的に著名な学者だった。戦後の冷戦期には、キューバ危機での米ソ対決の回避に尽力し、60年代後半にはベトナム戦争の戦争犯罪を裁くラッセル法廷を開設した。1970年に98歳で死去するまで、一貫して反戦平和の発言を続けた。

第一次世界大戦での反戦運動

 第一次世界大戦進行中の1916年1月、イギリスでは兵役法が成立し、3月から徴兵制度の運用が始まった。それに対してラッセルは、良心的兵役拒否を訴えるパンフレットを出版したため逮捕され、6月5日に法廷で罰金刑に処せられた。その後、ラッセルは勤務先のケンブリッジ大学を追われ、さらに外交方針に介入したという根拠薄弱な罪で1918年に半年間入獄する。なお、ラッセルが罰金刑を受けた6月5日にはラッセルが才能を見出した論理哲学者ルートヴィヒ=ヴィトゲンシュタインはオーストリア軍伍長代理としてロシア軍との東部戦線で戦っていた。<飯倉章『第一次世界大戦史』2016 中公新書 p.122>

ラッセル=アインシュタイン宣言

 第二次世界大戦で1945年8月、広島・長崎原子爆弾が使用されたことに強い衝撃を受けた。さらに大戦終結後には冷戦構造が深刻化する中で1949年にソ連は原爆実験を行い、1952年にはイギリスが続き、さらにアメリカ1954年3月にビキニ環礁水素爆弾の実験を行った。ラッセルはこれらの強国による核兵器開発競争に危機感を強め、核開発を進めた原子物理学者のアインシュタインと話し合い、1955年4月に核戦争の廃絶を訴えることで一致した。その直後、アインシュタインは死去したが、二人の訴えは世界の著名な科学者に支持され、1955年7月9日ラッセル=アインシュタイン宣言として発表された。それが一つの契機となって、世界的な核兵器廃絶運動が始まり、1957年7月11日には世界の科学者がパグウォッシュ会議を開催、核廃絶をめざす声明を発表した。

Episode 哲学者を挟んだ米ソ首脳との手紙の遣り取り

 1962年の米ソによる核戦争が危ぶまれたキューバ危機に際しては、ラッセルはソ連のフルシチョフに書簡を送り平和的解決を訴えた。フルシチョフもラッセル宛の返事で米ソ首脳会談開催の提案とアメリカが海上封鎖をやめればソ連も「馬鹿なまねはしない」と応えた。ラッセルはその書簡を公開、それに対してアメリカ大統領ケネディもラッセルに書簡を送り、ソ連は「押し込み強盗だ」とやりかえした。このラッセルを介しての米ソ首脳の交渉が、危機打開に向けての「最初の朗報」となり、ソ連はキューバに向かわせた船舶を引き返させ、衝突は回避された。<Newsweek 別冊 『現代史の証言』1995 p.120>

ベトナム戦争でのラッセル法廷

 冷戦下の最大の戦争となったベトナム戦争は、1965年頃から本格化し、同時にベトナムとベトナム人の甚大な被害とアメリカ兵の多数の死者の増加がアメリカの国内でのベトナム反戦運動の盛り上がりを見せるとともに、世界的な運動の広がりも始まった。それに呼応した一つが、ラッセルによって提唱されたベトナム戦争での戦争犯罪を告発するラッセル法廷だった。
 1967年5月2日、ラッセルが提唱したベトナム戦争犯罪国際法廷はストックホルムで開催され、裁判長役はフランスの哲学者サルトルが務め、アメリカ政府の侵略行為、ジェノサイド(民間人に対する大量殺害)などがなかったか、が裁かれることとなった。アメリカ政府はラスク国務長官が「94歳のイギリス老人(ラッセルのこと)とゲームする気にはならない」と参加を拒否、各国政府にも参加しないよう働きかけた。代わってアメリカの反戦活動家が証言し、審理が進んだ。
 第2回のラッセル法廷は11月にコペンハーゲンで開催され、3人のアメリカ帰還兵が戦場での生々しい残虐行為を証言した。特にアメリカ軍の監視下にある南ベトナム軍兵士が、解放戦線兵士に拷問を加えているという証言は衝撃を与えた。
 このラッセル法廷は最終的にベトナムにおけるアメリカ政府の行動はジェノサイドや違法な兵器の使用、捕虜虐待などの国際法違反に当たるとして、有罪判決を出した。アメリカのマスメディアは「反米プロパガンダ」などと反発したが、ベトナム戦争の違法性が広く世界的に知られることとなった。<油井大三郎『ベトナム戦争に抗した人々』世界史リブレット125 2014 山川出版社 p.60-62>
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