ドル=ショック/ドル危機/ニクソン=ショック
1971年8月15日、米大統領ニクソンが発表したドルと金の交換停止などの措置。それによってドルを基軸とした国際通貨制度が動揺した。
アメリカ合衆国において、1971年8月15日、ニクソン大統領の発表した、ドルの金との交換停止によって、ドルの価値が急落し、ドルを基軸とする国際通貨制度(ブレトン=ウッズ体制)が崩壊したこと。この結果ドル切下げが行われた。ドル危機ともいい、あるいはニクソン=ショックという場合もある。
日本にとっての2度の8月15日 8月15日は日本にとって1945年の敗戦の日であるが、この1971年の8月15日は、ある意味では「2度目の敗戦」であった。つまり、戦後の固定為替制度の1ドル=360円という超円安によって支えられていた輸出産業を軸とした日本の経済成長が、アメリカの一方的なドル切下げにより、大きく動揺し、高度経済成長の時代から低成長時代に転換せざるを得なくなったからであった。これ以後の日本は変動為替制で円高・円安に一喜一憂しながら、国内産業の生産基盤の転換を図らなければならなくなった。その後日本経済は1945年8月15日後の戦後の混乱を乗り切ったように、1971年8月15日後の困難も乗り切って行き、80年代のバブル期を迎える。しかし、一方で東南アジアや韓国、台湾などの追い上げが始まり、さらに1980年代に改革・開放政策を打ち出し、さらに社会主義市場経済に大胆に転換した中国経済が1990年代に入ると急成長を遂げ、日本経済は長い苦境が続くこととなった。
ドル危機に至るまで
第二次世界大戦後の1950年代は、ヨーロッパ各国や日本は輸入超過が続き、ドル不足に苦しんでいたが、60年代に経済の復興を遂げると逆に輸出を増やしてゆき、各国ともドル不足を解消、むしろドル過剰の状況となった。そのため各国はドルをアメリカの金と交換(兌換)したため、アメリカの金保有高は急速に減少した。そのため金価格は高騰、つまりドルの価値は下落した。これがドル危機と言われるものである。ドル危機の背景
第二次世界大戦後の世界経済は、1944年のブレトン=ウッズ協定によって、各国の為替レートを固定し、ドルと金の交換をアメリカ政府が保証することによってドルを基軸通貨とすることによって安定し、成長を続けてきた。ところがその中核を担っていたアメリカ経済は、冷戦による軍事費の増大、とりわけベトナム戦争の戦費が大きな負担となり、さらに戦争から立ち直った西ヨーロッパ諸国でヨーロッパの統合が進み、同じく戦後復興を遂げ高度経済成長を続ける日本に追い上げられ、1960年代にはその優位は失われてしまった。いまやアメリカが金に裏打ちされたドルによって世界経済を支えることは不可能になった。日本にとっての2度の8月15日 8月15日は日本にとって1945年の敗戦の日であるが、この1971年の8月15日は、ある意味では「2度目の敗戦」であった。つまり、戦後の固定為替制度の1ドル=360円という超円安によって支えられていた輸出産業を軸とした日本の経済成長が、アメリカの一方的なドル切下げにより、大きく動揺し、高度経済成長の時代から低成長時代に転換せざるを得なくなったからであった。これ以後の日本は変動為替制で円高・円安に一喜一憂しながら、国内産業の生産基盤の転換を図らなければならなくなった。その後日本経済は1945年8月15日後の戦後の混乱を乗り切ったように、1971年8月15日後の困難も乗り切って行き、80年代のバブル期を迎える。しかし、一方で東南アジアや韓国、台湾などの追い上げが始まり、さらに1980年代に改革・開放政策を打ち出し、さらに社会主義市場経済に大胆に転換した中国経済が1990年代に入ると急成長を遂げ、日本経済は長い苦境が続くこととなった。
アメリカ経済の行き詰まり
1960年代後半のアメリカ経済の低迷の要因には、次のようなことが考えられる。
ベトナム戦争の戦費支出の増大
1965年から本格化したベトナム戦争で、アメリカ軍は北ベトナムに対する北爆と共に、最終的には50万名を上回る陸上部隊を投入し、その軍事支出は膨大なものとなった。ジョンソン政権は当初掲げた「偉大な社会」建設のための社会保障支出を削減して、軍事費の捻出をはかったが、アメリカ経済の破綻をもたらすこととなった。次のニクソン大統領は69年にはニクソン=ドクトリンを発表してベトナム対策への同盟諸国による肩代わりとアメリカ軍の段階的撤退を表明したが、70年には北爆を再開、戦火をカンボジア、ラオスに拡大した。その穴埋めのように、1971年8月にドルの金の交換停止などを柱とするドル防衛策を発表せざるを得なくなった。社会保障費の増大
ジョンソン大統領は「偉大な社会」をかかげ、それを実現するための福祉プログラムを発表した。このプログラムは、1950年代のアメリカ経済の発展の中で取り残された社会福祉や医療、公共サービス、貧困問題などの解決を目ざすものであった。「偉大な社会」プログラムの中でもっとも予算を必要としたのは、高齢者医療保障と貧困者への公的医療保障の二つの政策であり、「この高齢者医療保障と医療扶助の二つのプログラムが医療サービスへの需要を拡大し、政府支出のなかに占める割合と総額を大幅に上昇させた。ジョンソン大統領の在任5年間をみても、医療支出は41億ドルから139億ドルへと急上昇する。」またジョンソン大統領は「貧困との闘い」を掲げ、失業救済、若者の就業援助政策として「経済機会法」を制定し、貧困撲滅運動を進めた。このジョンソンの「偉大な社会」プランは、ローズヴェルトのニューディール、トルーマンのフェアディール、ケネディのニュー・フロンティアという民主党の政策を継承したものであり、また経済学者ガルブレイスの『豊かな社会』(1958年刊)などの影響を受けてものであった。また、1962年に発表されたレイチェル=カーソンの『沈黙の春』が成長や発展の影にある問題を指摘し大きな反響を呼んだことも背景にあげられる。<猪木武徳『冷戦と経済繁栄』世界の歴史29 中央公論新社 1999 p.259~>日本・西ヨーロッパの復興と躍進
第二次世界大戦後、アメリカによる経済援助によって復興を遂げた日本および西ヨーロッパの諸国であったが、1950年開始の朝鮮戦争を期に急成長した日本と、奇跡の経済発展と言われた西ドイツに代表される西ヨーロッパ経済の繁栄が次第にアメリカを脅かすようになった。顕著に表れたのは貿易面で、日米貿易関係で言えば、ベトナム戦争が始まった1965年にはそれまで戦後一貫したアメリカ側の輸出超過が、この年に日本側の輸出超過に転じ、とくに繊維製品はアメリカ市場を圧倒したのでアメリカ側は高関税をかけたり、日本製品をボイコットするなどの“日米繊維戦争”とさえ言われる情勢となっていた。1971年にはアメリカは日本、およびECなどの地域の製品輸入が増大したため、100年ぶりに貿易収支が赤字に転落し、ニクソン大統領を初めとするアメリカ政界や経済界は大きなショックを受け、ドル危機に追いやることとなった。
財政赤字
アメリカ財政悪化の要因はさまざまものが複合しているが、主要なものは次のようなことである。1.冷戦下でアメリカが西側諸国への経済援助を続けたこと。
2.60年代からのベトナム戦争の出費が増大したこと。
3.社会政策費の増大が財政を圧迫したこと。
また、大資本が国内よりも高い利潤を求めて海外に投資するようになり、税収が減少したことも考えられる。
貿易収支赤字
第二次世界大戦後、50年代までは世界経済の中で「アメリカ一人勝ち」という状況であったが、60年代に入り、西ヨーロッパ諸国、日本の経済復興が進み、アメリカ製品の輸出は頭打ちとなって、逆にそれらの国々からの輸入が増加してきたため、貿易収支が赤字に転落した。1971年にアメリカの貿易収支が赤字に転じたのは、南北戦争を克服して工業化に成功して黒字に転じてから100年ぶりであった。ニクソンの経済政策
1971年、ドルの流出によるインフレという経済危機に直面したニクソン大統領は、ドルと金の兌換停止などを主眼とする思いきった経済政策を打ち出し、世界に衝撃を与えた。それをドル=ショックという。
1971年8月15日、ニクソン大統領はドルと金の兌換を停止するドル防衛策を発表、あわせてアメリカ産業を守るため、10%の輸入課徴金を課することを表明した。これはアメリカが自国経済の立て直しのために、ブレトン=ウッズ体制のルールを自ら放棄したものであった。
ドルと金の交換停止 と同時に10%の輸入課徴金を外国商人に課すというドル防衛策を表明した。アメリカのすべての輸入品に10%の課徴金を課すことによって、アメリカの輸入超過を抑え、ドルの流出を防止しようとしたものである。
ドルの金兌換停止
従来のブレトン=ウッズ体制では、ドルは世界の基準通貨として金と兌換できることになっていたが、1960年代にアメリカ経済が不振となるに従ってドルの実質的な価値が下落し、各国が競ってドルを金に兌換したためにアメリカの金保有高が急減し、ドル危機が進行したための「ドル防衛」策であった。これはドルの流出を防ぐためであったが、具体的にはアメリカが輸入を制限することを意味しているから、対米輸出に依存する各国にとっては大きな衝撃であり、この措置はドル=ショック(ニクソン=ショックともいう)と言わた。10%の輸入課徴金
1971年、ニクソン大統領は、ドル=ショック後の世界経済
1971年、ニクソン大統領が、ドル防衛政策を打ち出し、ドルと金の兌換停止に踏み切ったことは、戦後世界経済のブレトンウッズ体制を崩壊させ、同時に打ち出した10%の輸入課徴金の賦課は、同じく戦後世界経済の原則であった自由貿易主義を揺るがすこととなった。
ドルの切り下げから変動相場制へ
先進諸国は同1971年12月18日、ワシントンのスミソニアン博物館で主要国蔵相会議を開き、ドル切下げを決定、1ドル=360円から308円とされた(ドルから見れば切下げ、円から見れば切上げ)。このスミソニアン協定は固定相場制を維持することをねらった。これはドル切下げによってアメリカの輸出を増やしアメリカ経済を安定させることを目ざしたものであったが、世界に出回っていたドルの価値が保証されなくなったため、間もなく1973年までに先進諸国は相次いで変動相場制に移行し、ドルはさらに下落することとなった。自由貿易体制の危機
アメリカが輸入課徴金をもうけ、保護主義に転換したことは、第二次世界大戦後に、戦前のブロック経済体制を反省して自由貿易主義の原則を確立するために設けられた「関税と貿易に冠する一般協定(GATT)」の精神にアメリカが自ら反することをしたことを意味している。これ以後アメリカは保護貿易主義的な姿勢を強めることとなり、日米貿易摩擦の背景となっていく。ヨーロッパでは戦後、アメリカ経済の強い支配かっするためにヨーロッパの統合を進める動きが進み、1967年にヨーロッパ共同体(EC)が発足していたが、イギリスはアメリカ経済との結びつきが強いことから、それには加わらないでいたが、このドルショックの事態を受けて、1973年1月にイギリスの加盟が認められ拡大ECとなった。これもドル=ショック後の関連する動きであった。
ドル=ショックの影響
ドル=ショックは続く石油危機(オイル=ショック。第1次が1973年、第2次が1979年)とあわせて、戦後世界経済に大きな衝撃を与え、ドルを基軸とした国際通貨制度であるブレトン=ウッズ体制を崩壊させ、アメリカの威信の低下をもたらすとともに、西ヨーロッパ統合を促進させ、技術革新や省エネで危機を克服した日本経済が台頭し、資本主義世界での三極構造への転換などをもたらした。また資本主義経済では従来と違った不況とインフレが同時に進むスタグフレーションという現象が続くこととなった。このようなアメリカ経済の後退は、アメリカの外交政策にも大きな影響を与え、東西冷戦の終結の要因となった。