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セレウコス朝シリア

ヘレニズム諸国の一つでシリア、イランを支配したギリシア系の国。前3世紀、領内にパルティア、バクトリア、ペルガモンなどが自立。前63年にローマに滅ぼされた。

 アレクサンドロス大王の部将であり、後継者(ディアドコイ)の一人であったセレウコスが自立し、前312年に建国したシリア王国の王朝で、ヘレニズム三国の一つ。現在のシリアよりも広い、古代シリアをを中心に、イラン高原を含む、かつてのペルシア帝国の広大な領土をほぼ引き継いだ

セレウコス

 セレウコス(前350年代初め~前282)はアレクサンドロス大王の2歳ほど年長、東方遠征では特に中央アジアでの戦いの先頭で頭角を現し、近衛歩兵部隊指揮官を務めた。大王の死後、前321年に開催されたディアドコイ間のトリパラディソス会談でバビロニア総督に任命された。しかしアンティゴノスと対立して追放され、一時プトレマイオス朝のエジプトに逃れた。前312年、アンティゴノスの子のデメトリオスがプトレマイオス軍に敗れたのを機に、バビロンに帰還した。
インド侵攻に失敗 次第に勢力を回復したセレウコスは東方進出を図り、前306年からイラン高原を経てバクトリアに遠征し、さらにインドに侵攻したが、前304年、そのころインド初めての統一王朝として成立していたマウリヤ朝チャンドラグプタ王の大軍と戦って敗れ、大王が獲得したインドの領土をすべて放棄し、その代わりに500頭の象を手にいれて帰国した。

二つの都

 前305年にセレウコス1世はティグリス川河畔に新都セレウキアを建設し、バビロンに代わってオリエントの中心都市となった。セレウキアは東西交易の中心地として栄えたが、セレウコス1世は前300年に西方の地中海に近いアンティオキアも都とした。セレウコス朝シリアではこの二都市が首都として機能していた。

イラン人の血をもつギリシア人の王国

 セレウコスはアレクサンドロスの部将としてバクトリア征服に従軍した。アレクサンドロスの遠征に最も激しく抵抗したのが、イランの伝統宗教ゾロアスター教が根強かったバクトリアであったので、アレクサンドロスは征服後、ギリシア人の都市を建設しただけでなく、ギリシア人部将とイラン貴族の女性との結婚を奨励した。セレウコスもバクトリア人の戦争捕虜であるアパマと結婚し、一子をもうけた。それがアンティオコス1世で、セレウコス朝の後継者となった。このようにセレウコス朝は自らの内にイラン人の血をもった。<M=ボイス/山本由美子訳『ゾロアスター教』2010 講談社学術文庫 p.162>
 セレウコスは、アレクサンドロスの集団結婚式の時にペルシア人貴族スピタメネスの娘アパマを妻とした。他の側近たちのほぼ全員がイラン系の妻を離縁する中、セレウコスだけはアパマに愛情を寄せ続け、生涯連れ添った。彼女のおかげでセレウコスは、ペルシア人をはじめとするアジア人から信頼を得ることができたのである。<森谷公俊『アレクサンドロスの征服と神話』興亡の世界史1 2016 講談社学術文庫 p.291>

ヘレニズム国家

 セレウコス朝は始祖のセレウコスがイラン人女性を妻としただけでなく、ギリシア人兵士とイラン人少女の結婚は他にも数多く行われていたことが知られている。しかし、征服者と被征服者の両民族は、セレウコス朝支配の時代をつうじて、かなりの程度まで融け合わずにいたようで、新しい都市の文化は主としてギリシア的であり、古い町や村のものはほとんど純粋にイラン的なままであった。文字も、支配者のマケドニア人がギリシア文字をもたらしたが、その理解は一部のイラン人書記にとどまり、日常的にはまだアラム語アラム文字が使われていた。<M=ボイス『同上』 p.162>

パルティアの自立

 前3世紀になると、イラン系のパルティアが東方で自立して有力となり、北方のバクトリアや小アジアのペルガモンも独立し、セレウコス朝は次第に領土も縮小し、衰退した。またギリシア風のゼウス信仰を強要されたユダヤが反発して、前167年にユダス=マカバイオスらが反乱を起こした(マカベア戦争)。前142年にはユダヤ人に自治を与えざるを得なかった。最終的には前63年にローマに滅ぼされた。
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ノートの参照
1章2節 ケ.ヘレニズム時代