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ミトラダテス1世

前2世紀、パルティア王国の全盛期の王。

 パルティア(アルサケス朝)の第6代(在位前171年~前138年)、その版図をイラン高原からメソポタミアに及ぼして最大とした全盛期の王。ミトラダテス1世は真の意味でパルティア帝国の建設者ということができる。まず、セレウコス朝のイランにおける領土であったメディアに侵入し、前148/147年にエクバタナ(現ハマダーン)を陥落させた。さらに前141年にはバビロニアに入り、セレウコス朝の都セレウキアを占領、前139年にはその奪回を目指したセレウコス朝デメトリウス2世を破って捕虜とし自らの娘とめあわせた。セレウキアにはいったミトラダテス1世は、「ギリシアを愛する(フィルヘレネ)」という銘をつけた貨幣を発行した。また北方のギリシア系国家バクトリア(ミリンダ王の時)とは友好関係を結んだ。また、ティグリス川に面してクテシフォンを建設し、それが後のパルティアの新都となった。<中央公論社『世界の歴史4 オリエント世界の発展』1997 p.238 などによる>

Episode ミトラダテスとミトリダテス

 パルティアにはミトラダテス2世(在位前124~前87年)という王がいたが、ほぼ同時代に、小アジアのポントスという小国にミトリダテス6世(在位前120年~前63年)というのもいた。こちらをミトラダテスとも言う場合があるのでややこしい。おまけに同時代の二人は関係があった。ポントスは小アジアの黒海に面した地域にあったギリシア系ヘレニズム国家の一つであったが、ローマの侵攻によく耐えていた。その前88~63年の三度にわたるローマとの戦争はミトリダテス戦争あるいはミトラダテス戦争と言われている。一方、ローマとパルティアはアルメニアをめぐって対立していたが、アルメニアの王ティグラネスは大国間の争いの中で生き延びようと、娘をパルティア王ミトラダテス2世に嫁がせ、一方でポントス王ミトリダテス6世の娘を妻とした。しかし、ミトリダテス6世がローマのスラに敗れてポントスに亡命、ローマの将軍ルクルスがそれを追ってアルメニアに侵攻したため危機に陥った。このときはローマ軍は(ユーフラテス川を国境とするという)パルティアとの協定を破らずに引き上げたので、ティグラネスは助かったが、アルメニアの帰属問題はその後もローマとパルティアの対立の要因として続いた。ポントスのミトリダテス6世は、最後にはポンペイウスに攻められて自殺した。<中央公論社『世界の歴史4 オリエント世界の発展』1997 p.245-246>
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1章1節 キ.パルティアとササン朝