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バクトリア/バクトリア王国

中央アジア、現在のアフガニスタン北部のアムダリア川上流域をバクトリア地方という。アケメネス朝ペルシアの領土であったが、前3世紀、アレクサンドロスが征服し、バクトリア王国を建設、ギリシア人を入植させた。ヘレニズム諸国の一つとしてのバクトリア王国のもとでギリシア文明とイラン文明の融合が進み、インドからの仏教も受け入れた。前139年にスキタイ系遊牧民トハラ人によって滅ぼされ、その後バクトリアにはイラン系大月氏国の支配が及んだ。

バクトリア地図

バクトリア(前200年頃のおおよそを示す)
国境(赤点線)は現在

バクトリアはもともとは地域名であり、アムダリア川上流、ヒンドゥークシュ山脈の北側に広がる盆地をさす。現在のアフガニスタン北部にあたり、その北に隣接するソグディアナとともに東西と南北の交易路が交差する交易の中心地であった。前550年にイラン高原に成立したアケメネス朝ペルシア帝国がこの地に進出し、ソグディアナとともにその支配下に入った。

アレクサンドロス大王の侵攻

 アレクサンドロス大王の東方遠征は前330年1月、ペルシア帝国をほろぼし、アムダリア川を越えて、前328年からバクトリアへの侵攻が行われた。戦いは北部のソグディアナに及び、それは民衆を巻き込んだ凄惨な闘いとなって2年間に及んだ。ようやく平定に成功したアレクサンドロスは、ソグディアナの豪族の娘ロクサネを正妃に迎えて和解し、遠征の達成を祝った。
 しかし、アレクサンドロスがこの地にギリシア人を入植させたのに加え、1万5千の歩兵、3500の騎兵を残留させたことは、いかにこの地の支配が不安定であったかを示している。各地のアレクサンドリアの建設に見られるギリシア人入植政策は、実態はギリシア人隔離政策とも言えるもので、大王の死後、不満を持ったバクトリアを含む東方諸属州のギリシア人2万3千人は蜂起して祖国に帰ろうとしている。この反乱は鎮圧されたが、けして平和的な融合策ではなかったことを示している。<森谷公俊『アレクサンドロスの征服と神話』興亡の世界史1 2016 講談社学術文庫 p.322>

バクトリアの抵抗

 アレクサンドロスの遠征の中で、最も激しく抵抗したのはバクトリアであった。バクトリアにはイラン人の宗教であるゾロアスター教の伝統が強く残っていたので、アレクサンドロス大王はこの最後まで抵抗した地域を征服した後で、戦略的にも重視し、ギリシア人の総督を置き、いくつかのギリシア人都市を建設した。さらに、アレクサンドロスと将軍たちはイラン人貴族の女たちと結婚した。部将の一人セレウコスはバクトリア人の戦争捕虜であるアパマを選び、息子のアンティオコス1世をもうけた。<M=ボイス/山本由美子訳『ゾロアスター教』2010 講談社学術文庫 p.162>

セレウコス朝シリア

 前323年に大王は死去し、後継者(ディアドコイ)たちの争いが始まり、前308年からはその一人のセレウコスがシリアからこのバクトリアにかけてを平定してヘレニズム三国のひとつであるセレウコス朝シリアを建てバクトリアはその一部となった。

バクトリア王国の独立

 前255年ごろ、セレウコス朝シリアのバクトリア総督ディオドトス1世は、次第に分離独立の意向を強め、貨幣に王の称号を付けて自分の名前を刻印し、バクトラを都に事実上の独立王国を作った。前3世紀末、エウテュデモスと言う人物がバクトリア王ディオドトス2世を殺害して権力を握ると、セレウコス朝のアンティオコス3世は出兵してバクトラを包囲した。しかし、エウテュデモスは2年にわたって包囲に耐え、ついにアンティオコス3世と和睦し、ここに名実ともにバクトリア王国の独立は認められた。都はバクトラ(現在のバルフ)におかれた。
 このバクトリア王国は、前255年ごろから前139年まで、現在のアフガニスタンの北部地域を支配したギリシア人の国家、つまりヘレニズム諸国の一つとして存続し、一時は北西インドに進出して、インドにギリシア風の文化を伝えるなど、重要な役割を果たした。
グレコ=バクトリア王国 バクトリアという用語は、地域(地方)名として使う場合と、バクトリア王国というギリシア系国家の国家名として使う場合がある。バクトリア地方はもともとアムダリア川上流で、ヒンドゥークシュ山脈の北側の一帯をさし、すぐ東にはトハラ人のいるトハリスタンがあるが、バクトリア王国はその一帯を含む広い範囲を支配したので、その王国の支配の及んだ地域をバクトリアと言うこともある。その意味で使えば、トハラ(大夏)も大月氏もバクトリアを支配した国家だったと言える。そこで混乱を避けるため、最近ではギリシア人が建てた国家としてのバクトリアをグレコ=バクトリア王国(ギリシア=バクトリア王国)とすることが多くなっている。

ガンダーラへの進出

 バクトリア王国は、前2世紀中ごろ(前155年)即位したメナンドロス王のもと最盛期となり、イラン高原のパルティアとは友好関係を保ち、インドのマウリヤ朝の衰退に乗じてインドの西北まで侵入した。これによって、ヘレニズム文化がインドに及び、ガンダーラ美術が生まれたとされてる。しかし、近年は、ガンダーラ美術はギリシア文化単独の影響ではなく、イラン文化やローマ文化の複合的な影響の下に生まれたと考えられるようになっている。

インド=ギリシア人

 バクトリアのギリシア人勢力は、前200年頃、マウリヤ朝の衰退に乗じて南下し、パンジャーブ地方を支配下においた。彼らはやがてバクトリアの本土に残った勢力とパンジャーブに拠った勢力に分裂したが、前2世紀なかばすぎにバクトリア本土が遊牧民族のトハラ(大夏)に奪われたため、本拠を完全にパンジャーブに移した。一般的には「当時のインドでギリシア人は、イオニアという民族名の訛ったヨーナ(ヤヴァナ)の名で呼ばれた。今日の歴史家は彼らをインド=ギリシア人と呼んでいる。」<世界各国史『南アジア史』2004 山川出版社 p.82>と説明されている。

ヘレニズム史かインド史か

 かつては、バクトリアにヘレニズムが及ぶことによって「ギリシアとインド」が融合したと考えられ、それを実現したアレクサンドロス大王の遠征は人類の和合という夢に基づいていたとさえ説かれていた。しかしこのような説は実証的な裏付けはなく、根拠は薄弱であることが判ってきた。イギリスなどのヨーロッパ勢力がアフガニスタンなどの中央アジアに進出していった20世紀前半の時代背景から生まれたこのような説に対して、第二次世界大戦後の1957年に出版されたインドのナラインの『インドのギリシア人』においては、「バクトリアの新しい国家を、アレクサンドロス帝国の後継国家のひとつと見ることはできない。インド=ギリシア人がインドの宗教と思想に影響された度合いは、他のヘレニズム諸国の王が、彼が生きかつ支配した土地の信条や思想に影響された度合いよりもはるかに大きかった。彼らの歴史はインド史の一部であって、ヘレニズム諸国の歴史ではない。」と述べている。
 バクトリアは、ヘレニズム史とインド史のどちらの文脈で理解されるべきなのか。古代バクトリア史は研究者の歴史観を問う論争となった。1960年代から考古学的発掘が行われるようになり実証的研究が始まったが、1979年のソ連のアフガニスタン侵攻によって中断された。その後、各地の発掘によって夥しい貨幣などが出土している。<森谷公俊『アレクサンドロスの征服と神話』興亡の世界史1 2016 講談社学術文庫 p.322>

トハラと大月氏

 バクトリアは、前139年にスキタイ系遊牧民トハラ(大夏)によって滅ぼされた。中国の古代文献(司馬遷の『史記』)に出てくる「大夏」はこのトハラを指しているとする説が現在では有力になっている。次いで、匈奴に追われて東方から西トルキスタンに入り、ソグディアナに大月氏国を建国していたイラン系の大月氏が、さらに南下してバクトリアに入り、トハラもその支配を受けるようになった。
 続いて大月氏の部族の中から有力となったクシャーナ族がこの地から北インドにかけてクシャーナ朝を建国した。

バクトリア王国の滅亡

 バクトリアの滅亡については、かつての山川の世界史用語集や実教出版版・三省堂版などの用語集では「前139年にスキタイ系のトハラに滅ぼされた」とされていた。2014年版の山川世界史用語集でも「(前139年)大月氏の攻撃により滅ぼされた。」となっていた。同じ山川出版社の世界史小辞典(2004年改訂新版)では「これらのギリシア人諸都市は遊牧民族の大月氏の侵入を受けて滅亡し(前145年)、ヘレニズム文化は滅んだ」とされていて、年代も含めて混乱してしまう。山川出版社の新版『世界各国史・南アジア史』(2004)を見ると、「彼(バクトリア王国のメナンドロス王)の死後、王国は分裂・衰退し、前1世紀なかばごろ中央アジア方面から南下してきたシャカ(サカ)族に滅ぼされた」と説明されている。どうやら、バクトリアは一挙に滅亡したのではなく、バクトリア本土とインド北西部に分裂し、それぞれ別個に滅亡したらしい。やや古いが『京大東洋史辞典』では、「・・・デメトリオスがインド経略に専心する間に、エウクラティディスが王位を簒奪し、各地に僭主がおこって争い、ギリシア人の支配権はとみに衰えたが、西隣のパルティア、北方のスキタイ人の圧迫を受け、ついにトハラのため、前139年、バクトリア王国は滅ぼされた」となっている。シャカ(サカ)族というのは、パミール高原からカスピ海沿岸で活動していたイラン系の遊牧民で、ギリシアではスキタイの一部とされており、彼らがバクトリア滅亡にかかわったのは確かだろう。
 ヘレニズム時代のギリシア人地理学者ストラボンの記述によれば、スキタイ(ペルシア資料のサカ)のなかのアシオイ、パシアノイ、トハロイ、サカラウリという遊牧民がシル川の北から南下し、アム川の南のバクトリア地方をギリシア人から奪ったという。この中のトハロイがトハラのことであるとされている。<小松久夫編『新版世界各国史4 中央ユーラシア史』2000 山川出版社 p.102-103 を参照>
 このトハラが大夏であり、バクトリア王国を滅ぼしたと考えられる。しかし、スキタイ、トハラ、大月氏の関係はまだ不明な点が多く、わかっていないというのが現状だろう。
 山川用語集では、2018年版には、バクトリア(王国)を前255年頃~前145年頃とし、「大月氏の攻撃により滅ぼされた。」と変更になってるが、根拠は今のところ不明である。いまだ明確な整理はできていないが、現地アフガニスタンの発掘調査によって新たな知見が得られていたようだが、それも戦争とタリバン政権の復活で困難になっているのだろう。解明にはまだ時間がかかりそうだ。<2022/4/6 記>  → サカ族 トハラ

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前田耕作
『バクトリア王国の興亡』
2019 ちくま学芸文庫

バクトリア王国だけでなく、ペルシア帝国、アレクサンドロス、セレウコス朝、パルティア、クシャン朝などの興亡と文化、遺跡についての壮大な物語を文庫本に凝縮。

森谷公俊
『アレクサンドロスの征服と神話』
興亡の世界史
2016 講談社学術文庫