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バクトリア

前3~2世紀、アム川上流域、現在のアフガニスタン北部から北西インドを支配した国。アレクサンドロスの遠征に従って来たギリシア人が建てたヘレニズム諸国の一つ。

 前255年頃から前139年まで、現在のアフガニスタンの地域にあったギリシア人の国でヘレニズム諸国の一つ。前4世紀後半に東方遠征でアム川(現在のアムダリア川)流域を征服したアレクサンドロス大王は、バクトリア、ソグディアナにギリシア人を入植させ、支配を行った。前308年からは大王の後継者(ディアドコイ)の一人のセレウコスがこの地を平定してヘレニズム三国のひとつであるセレウコス朝シリアの一州とした。前255年ごろ、ギリシア人総督に率いられてバクトリア王国として独立した。都はバクトラ

アレクサンドロス大王の侵攻

 アレクサンドロス大王の東方遠征の中で、前328年からバクトリアへの侵攻が行われた。戦いはバクトリアの北部のソグディアナに及び、それは民衆を巻き込んだ凄惨な闘いとなって2年間に及んだ。ようやく平定に成功したアレクサンドロスは、ソグディアナの豪族の娘ロクサネを正妃に迎え、和解の達成を祝った。
 しかし、アレクサンドロスがこの地にギリシア人を入植させたのに加え、1万5千の歩兵、3500の騎兵を残留させたことは、以下にこの地の支配が不安定であったかを示している。各地のアレクサンドリアの建設に見られるギリシア人入植政策は、実態はギリシア人隔離政策とも言えるもので、大王の死後、不満を持ったバクトリアを含む東方諸属州のギリシア人2万3千人は蜂起して祖国に帰ろうとしている。この反乱は鎮圧されたが、消して平和的な融合策ではなかったことを示している。<森谷公俊『アレクサンドロスの征服と神話』興亡の世界史1 2016 講談社学術文庫 p.322>

セレウコス朝の支配

 アレクサンドロスの遠征の中で、最も激しく抵抗したのはバクトリアであった。バクトリアにはイラン人の宗教であるゾロアスター教の伝統が強く残っていたので、アレクサンドロス大王はこの最後まで抵抗した地域を征服した後で、戦略的にも重視し、ギリシア人の総督を置き、いくつかのギリシア人都市を建設した。さらに、アレクサンドロスと将軍たちはイラン人貴族の女たちと結婚した。部将の一人セレウコスはバクトリア人の戦争捕虜であるアパマを選び、息子のアンティオコス1世をもうけた。<M=ボイス/山本由美子訳『ゾロアスター教』2010 講談社学術文庫 p.162>

バクトリア王国の独立

 前3世紀の中ごろ、セレウコス朝シリアの総督ディオドトス1世は次第に分離独立の意向を強め、貨幣に王の称号を就けて自分の名前を刻印し、事実上の独立王国を作った。前3世紀末、エウテュデモスと言う人物がバクトリア王ディオドトス2世を殺害して権力を握ると、セレウコス朝のアンティオコス3世は出兵して都バクトラを包囲した。エウテュデモスは2年にわたって方に耐え、ついにアンティオコス3世と和睦し、ここに名実ともにバクトリアの独立は認められた。

ガンダーラへの進出

 前2世紀初頭、メナンドロス王のもと最盛期となり、イラン高原のパルティアとは友好関係を保ち、マウリヤ朝の衰退に乗じてインドの西北まで侵入した。これによって、ヘレニズム文化がインドに及び、ガンダーラ美術が生まれることとなる。しかし、近年は、ガンダーラ美術はギリシア文化単独の影響ではなく、イラン文化やローマ文化の複合的な影響の下に生まれたと考えられるようになっている。

インド=ギリシア人

 バクトリアのギリシア人勢力は、前200年頃、マウリヤ朝の衰退に乗じて南下し、パンジャーブ地方を支配下においた。彼らはやがてバクトリアの本土に残った勢力とパンジャーブによった勢力に分裂したが、前2世紀なかばすぎにバクトリア本土が遊牧民族(大月氏)に奪われたため、本拠を完全にパンジャーブに移した。一般的には「当時のインドでギリシア人は、イオニアという民族名の訛ったヨーナ(ヤヴァナ)の名で呼ばれた。今日の歴史家は彼らをインド=ギリシア人と呼んでいる。」<世界各国史『南アジア史』2004 山川出版社 p.82>と説明されている。

ヘレニズム史かインド史か

 かつては、バクトリアはヘレニズムが及ぶことによって「ギリシアとインド」が融合したと考えられ、それを実現したアレクサンドロス大王の遠征は人類の和合という夢に基づいていたとさえ説かれていた。しかしこのような説は実証的な裏付けはなく、根拠は薄弱であることが判ってきた。イギリスなどのヨーロッパ勢力がアフガニスタンなどの中央アジアに進出していった20世紀前半の時代背景から生まれたこのような説に対して、第二次世界大戦後の1957年に出版されたインドのナラインの『インドのギリシア人』においては、「バクトリアの新しい国家を、アレクサンドロス帝国の後継国家のひとつと見ることはできない。インド=ギリシア人がインドの宗教と思想に影響された度合いは、他のヘレニズム諸国の王が、彼が生きかつ支配した土地の信条や思想に影響された度合いよりもはるかに大きかった。彼らの歴史はインド史の一部であって、ヘレニズム諸国の歴史ではない。」と述べている。
 バクトリアは、ヘレニズム史とインド史のどちらの文脈で理解されるべきなのか。古代バクトリア史は研究者の歴史観を問う論争となった。1960年代から考古学的発掘が行われるようになり実証的研究が始まったが、1979年のソ連のアフガニスタン侵攻によって中断された。その後、各地の発掘によって夥しい貨幣などが出土している。<森谷公俊『アレクサンドロスの征服と神話』興亡の世界史1 2016 講談社学術文庫 p.322>

トハラと大月氏

 その後、前139年にスキタイ系遊牧民トハラ(大夏)によってバクトリアは滅ぼされた。次いでイラン系の大月氏が匈奴に追われて東方からこの地に入り、支配した。続いて大月氏の一族から有力となったクシャーナ族がこの地から北インドにかけてクシャーナ朝を建国した。

バクトリアの滅亡

 バクトリアの滅亡については、高校生用世界史用語辞典では、山川版・実教出版版・三省堂版のいずれでも、「前139年にスキタイ系のトハラ人に滅ぼされた」とされている。ところが、山川出版社世界史小辞典(2004年改訂新版)では「これらのギリシア人諸都市は遊牧民族の大月氏の侵入を受けて滅亡し(前145年)、ヘレニズム文化は滅んだ」とされていて、混乱してしまう。同じく山川の新版『世界各国史・南アジア史』(2004)を見ると、「彼(メナンドロス王)の死後、王国は分裂・衰退し、前1世紀なかばごろ中央アジア方面から南下してきたシャカ(サカ)族に滅ぼされた」と説明されている。どうやら、バクトリアは一挙に滅亡したのではなく、バクトリア本土とインド北西部に分裂し、それぞれ別個に滅亡したらしい。やや古いが『京大東洋史辞典』では、「・・・デメトリオスがインド経略に専心する間に、エウクラティディスが王位を簒奪し、各地に僭主がおこって争い、ギリシア人の支配権はとみに衰えたが、西隣のパルティア、北方のスキタイ人の圧迫を受け、ついにトハラのため、前139年、バクトリア王国は滅ぼされた」となっている。シャカ(サカ)族というのは、パミール高原からカスピ海沿岸で活動していたイラン系の遊牧民で、ギリシアではスキタイの一部とされていたので、彼らがバクトリア滅亡にかかわったのは確かだろう。山川の旧版『世界各国史・インド史』(1960)の説明、「(匈奴に追われた月氏族が西トルキスタンに移動したことによって)その地方にいたイラン系の遊牧種族であったサカ(シャカ)族が南下して、前2世紀の後半にバクトリア本国を滅ぼしたが、さらに南下を続け、南アフガニスタンに定住した後、前1世紀になるとインダス川流域から西インドに向けて発展を始めた。・・・(イラン高原東北部の)パルティアもまたサカ族とほぼ同時に、東方に勢力を増大したから、サカおよびパルティアの両勢力は、やがて、本国を失って西北インドに君臨していたバクトリアのギリシア系諸王の勢力に代わっていった(後1世紀ごろ)」というのが最も正確なように思われるが、そうすると「トハラ人」は何なのだろうか。上記の書物だけからだとトハラ=サカともとれるが、いまのところ確証はない。(2011.10.30) → サカ族 トハラ