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アラビア半島

西アジアの地中海、紅海、ペルシア湾、インド洋に囲まれた広大な半島。大部分が砂漠地帯だが、ヒジャーズ地方(紅海沿岸)のメッカに現れたムハンマドがイスラーム教を創始した。現在では産油地帯として重要である。

アラビア半島地図

アラビア半島

 中東にある世界最大の半島。北をイラク、シリア、パレスチナに接し、スエズ地峡でアフリカのエジプトに接する。三方を紅海、アラビア海、ペルシア湾にはさまれている。大部分は砂漠(北からナフード砂漠、ダフナー砂漠、フブアルハーリー砂漠)で、紅海に沿って山地が連なる。比較的降雨に恵まれた山地の続く紅海沿岸(ヒジャース地方という)、乾燥した砂漠地帯である中央地域(ネジュドといわれ、サウジアラビアの首都リアドがある)からなる。半島の南端のイエメンは湿潤で早くから農耕がおこなわれ、アフリカのエチオピアなどとも交易を行っていた。

民族と国家

 アラビア半島の民族であるアラブ人は、ベドウィンといわれる遊牧民と都市に定住した商人からなる。現在はアラビア半島の80%はサウジアラビア王国に属しており、半島の先端には北のペルシア湾に面して湾岸諸国と言われるアラブ首長国連邦、カタール、バーレーンがあり、アラビア海に面してオマーン、南の紅海のアラビア海への出口を抑える形でイエメンがある。いずれも産油国として重要な地域となっている。半島最南端の公海の出入り口近くには、古くから海港都市として栄えたアデンがある。

アラビア半島でのイスラーム教勃興の背景

 アラビア半島の南側、紅海沿岸であるヒジャーズ地方は、古来イエメンなどからインド洋方面を結ぶ紅海沿岸の交易ルートが存在していたが、6世紀頃から、従来の地中海からメソポタミア・シリアを経て中央アジアのシルクロードにつながる交易ルートが、ビザンツ帝国ササン朝ペルシアの抗争のため衰退し、かわってアラビア半島南側のヒジャーズ地方のルートが用いられるようになった。その結果、メッカメディナなどの商業都市が栄え、イスラーム教が勃興する背景となった。

イスラームのアラビア半島の統一

 622年ヒジュラによって拠点をメディナに移したムハンマドは、信者の獲得に努め、強固な信仰共同体ウンマをつくりあげた。624年、メッカのクライシュ族の隊商がシリアから戻る途中を襲撃し最初の勝利を収めた(バドルの戦い)。メッカ側も何度かメディナを攻撃したが、ムハンマドはメディナの町の周辺に塹壕を掘って抵抗し、その侵攻を食い止めた。メディナのユダヤ教徒がメッカに呼応すると、ムハンマドはユダヤ人を追放し、メディナの支配権を確立した。630年にムハンマドが聖地巡礼と称して1万に達する信者を率いてメッカに向かうと、メッカのクライシュ族は戦意を喪失し、ムハンマドはほとんど無血でメッカに入り、征服した。メディナに戻ったムハンマドはその地をウンマ統治の拠点とした。ムハンマドのメッカ征服が伝えられるとアラビア半島の遊牧部族も次々と帰順し、メディナに使節を送ってきた。これによって歴史上初めて、アラビア半島が統一されたと言える。
 632年にムハンマドが死去すると、メディナのイスラーム国家は危機に陥ったが、ムスリム集団の長老アブー=バクルをムハンマドの後継者カリフとして選出した。ムハンマドの死によってメディナから離反する部族も出たが、アブー=バクルは武力で部族反乱を鎮めていった。これをリッダ戦争(リッダとは背教者のこと)という。さらにその後、アブー=バクルはイエメン、オマーン、バハレーン(現在のバハレーン唐の対岸の沿岸部)などの部族に対しても改宗、服従を求めて勢力を広げ、アラビア半島統一を完成した。
 しかし、このような周辺への勢力拡張は、隣接するビザンツ帝国・ササン朝との対立を必然的にもたらすこととなった。第2代カリフのウマルの時からジハードという名の征服活動が本格化し、イスラームはアラビア半島だけではない世界帝国へと転換していく。
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