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ジハード/聖戦

イスラーム教徒の異教徒との戦い。ジハードはイスラーム法に定める信者の義務であり、聖戦とも訳される。イスラーム帝国はジハードを繰り返しながら勢力を拡大した。

 ジハードは、イスラーム教およびイスラーム教徒(ムスリム)を迫害する不信心者(異教徒)との戦いをことで、ムハンマド時代のメッカとの戦いから続いている。特に正統カリフ時代には、シリア・パレスチナのユダヤ教徒やキリスト教徒、ササン朝ペルシアのゾロアスター教徒などとの戦いがあった。異教徒との戦いはムスリムの義務の一つであるが、その戦いで戦死した者は天国に行くことが出来ると信じられていて、最近のアラブ側の自爆テロまでその精神は継承されている。

イスラーム帝国のジハード

 正統カリフ時代(特に第2代ウマルの時)の主な聖戦は次のようなものがある。
 633~636年 シリアパレスチナ遠征 635年にダマスクスを征服。
 636年 ヤルムークの戦い イスラーム軍、ビザンツ帝国(皇帝ヘラクレイオス1世)軍を破る。 → ビザンツ帝国シリアから撤退。
 637年 カーディシーヤの戦い ササン朝ペルシア軍を破る(将軍サード=ブン=アビー=ワッカース) → イラクに進出。
       → 同年中にクテシフォンを制圧。
 639~641年 エジプト征服(将軍アムル=ブン=アルアース) アレクサンドリアを占領。
 642年 ニハーヴァンドの戦い ササン朝ペルシア軍を破る → 651年 ササン朝ペルシア滅亡。

Episode 「コーランか剣か」の誤解

 一般にアラブの遠征軍は、「コーランか剣か」の二者択一をせまり、改宗しなければ皆殺しにする、というようなイメージがつくらている。しかし、アラブの征服には、(1)イスラームに改宗するか、(2)人頭税を支払って従来通りの信仰を保持するか、(3)これらを拒否してあくまで戦うか、の三通りがあったのであり、けっして「コーランか剣か」の二者択一ではなかった。アラブの圧倒的強さを見たキリスト教徒が、「野蛮な宗教」という恐怖心から誤解し、それが明治以降の日本に輸入されたのである。<佐藤次高『イスラーム世界の興隆』世界の歴史8 中央公論社 p.80>
 なお、「右手に剣を、左手にコーランを」というようなことも言われたが、これも左手を不浄な手としているイスラームが左手でコーランを掲げることはないので、まったくの誤解である。真実に近い言い方をすれば、「剣か、税か、コーランか」である。

ジハードの意味を考える

 2001年の9.11同時多発テロ以来、いわゆるイスラーム過激派が行うテロ行為は、彼らが「ジハード」として決行したと宣言していることから、『コーラン』で「ジハード」を信徒の義務と教えているイスラーム教そのものが危険な宗教であるという思い込みがますます強くなり、それがさらに世界各地でのイスラーム教徒に対する排除と差別の感情を生み出すという、憎悪の連鎖が続いている。このような一連のテロ事件はコーランの教えるジハードとして行われているのだろうか、「ジハード」の理解が世界史学習の上でも重要になっている。コーランではジハードをどのように教えているのか、幾つかの参考書から探ってみよう。
内面のジハード ムハンマドのメッカ時代にはジハードは戦闘の意味はなく、自分の心の中の悪と戦う、あるいは社会的な善行を行うことを指していた。「信仰のために奮闘努力する者は、自らのために努力しているのである」(蜘蛛章6節)という一節の「奮闘努力する」と訳した部分が「ジハードする」と書かれている。このようにこの段階のジハードは、心の悪と戦う「内面のジハード」、社会的な善行を行い個性の樹立に努力する「社会的ジハード」であった。それに対して国家の通常の戦争・防衛・治安維持などのための戦いは「キタール」といわれていた。
(引用)ジハードとはもともと、自己の心の悪と戦い、また社会的公正を樹立するために奮闘努力することを意味し、その原理は戦争の論理ではない。もしそうであれば、それほど息の長い原理ではありえないであろう。戦いだけでは、帝国は建設しえない。イスラーム帝国が優れていたのは、短期間に大きな版図を征服したことよりも、それを統治し、人々がそこで繁栄できるような帝国を建設した点にある。ジハードが、帝国建設といかに結びついていたのかが、そこでの論点である。<小杉泰『イスラーム帝国のジハード』2006 講談社学術文庫 p.48-49>
剣のジハード 622年にメディナに移ったムハンマドは信仰共同体ウンマを結成した。その時からメッカのクライシュ族との戦いが不可避であることが明確となり、624年のバドルの戦い、翌年のウフドの戦いなど激戦が続き、ムスリム側にも多数の犠牲が出た。
(引用)迫害が激しくなり、いく人も命を落とすような事態となった。とうとう、ムハンマドたちは故郷を捨てて、新天地を求めなくてはならなくなり、暗殺計画を遁れて、マディーナ(メディナ)の町に移住した。その時点で、マッカ(メッカ)のクライシュ族との武力対決は不可避となり、新生の宗教が生き延び、マディーナに建設した新しい共同体を守るためには、剣にかけても戦わなくてはならなくなった。かくして、「戦闘の許可」の時代に入った。「剣によるジハード」の時代と言ってもよい。<小杉泰『イスラーム帝国のジハード』2006 講談社学術文庫 p.109-110>

ジハードと現代

 今、ジハード=自爆テロと言われることが多く、マスコミもそのように言うことがある。それにならされた我々も、イスラームを得体の知れない恐ろしい狂信団体と感じてしまうことがある。それははたして正しい捉え方なのか、ここでは日本人でありながら実際にムスリムになった、著名なイスラーム学者中田考さんの一般向けの諸策から説明を聞いてみよう。
  • ジハードは特殊な、一部の狂信者が自暴自棄になってやっていることではなく、イスラームの正統教義であり、『クルアーン』(コーラン)にも「ジハードする者は天国に行く」という言葉がいくらでも出てくる。
  • ジハードは天国への一番の近道であり、ムスリムであれば誰でも、同じ死ぬのであればジハードで死にたいともっている。ただし、だからムスリムはみな死を恐れないとか、死を望んでいるのではない。
  • 殉教者が天国に行くとされるのはキリスト教や日本の戦国時代の一向一揆と同じ。
  • 日本で「自爆テロ」とよばれている者がジハード的と言えるかは問題がある。イスラームの教えでは自殺は永遠に火獄で焼かれるほどの大罪とされている。ジハードによる殉教死か、自殺かは決定的に違う。ジハードは死ぬことを目的とする自殺ではなく、あくまでも戦いであって、死ぬまで戦うことが基本である。
  • このようにジハードとは自殺でも自縛でもなく、あくまで戦闘であって、戦い抜いてた結果として死ねば天国に行けるというのがイスラームの教えである。
  • イスラーム法学では、ジハードとは異教徒に対するイスラームのための戦闘である、とされる。イスラームを守って広めるための戦闘がジハードであり、ムスリム同士の戦闘はジハードにはならない。
  • イスラーム法学でジハードとして許されるのは、異教徒の攻撃からの自衛に限定される戦闘行為である。その場合はカリフの命令がなくとも各人の主体性に委ねられる。
  • ダール・アル=イスラーム(イスラーム法が施行される空間)を拡大するためのジハードはムスリムの権威であるカリフの命令が必要である。
  • ハディースにおいては、敵を焼き殺すことは禁止されている。現代の戦争にみられるミサイル、空爆など大量破壊兵器はイスラーム法の見地からは犯罪とされる。
※以上の中田考氏のジハード論でいえば、9.11の同時多発テロはジハードではなく、世界各地で起こった反米闘争という政治活動であるとなる。また2014年から本格的となった「イスラーム国」にたいしては、「カリフ復権」を掲げた点は大きく評価するものの、その現実の手段は不寛容で残忍なものでありイスラーム本来のものでないと批判的であり、またその主権国家と国境の否定については、その主力がイラクやシリアの独裁政権の流れをくんでいることへの危惧を表明している。中田氏自身が警察から疑われているイスラーム国戦闘員に日本人青年を送ったことについてはアラブの友人に対する友情からのことであると弁解している。その後、イスラーム国は中田氏の見通しの通り、急激に衰退しているが、中田氏への警察・検察の追及は今も続いている。新聞に依れば、2019年7月3日、警視庁公安部はIS国に渡航しようとした元学生と、それを仲介したとして中田ら5名を私戦予備・陰謀容疑で書類送検した。
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書籍案内

小杉泰
『イスラーム帝国とジハード』
講談社学術文庫 2016

中田考
『イスラーム
生と死と聖戦』
2015 集英社新書