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ヴェルサイユ宮殿

ルイ14世がパリ郊外に建設した宮殿。ブルボン朝絶対王政の政治・宮廷文化の中心となった。バロック式建築の代表する文化遺産でもある。

 ルイ14世が1661年から数十年をかけて造営した宮殿。パリの南西約20㌔にある。もとはルイ13世が狩猟の際の宿泊のために作った小さな城であったところを、ルイ14世が改修・拡張した。宮殿の中心の「鏡の間」や、庭園が有名。広大な庭園はル=ノートルの設計、宮殿本館はル=ヴォー、鏡の間はルブランとマンサールが手がけた。この宮殿建築はバロック美術の集大成という趣であった。
 なお、ブルボン朝の宮廷は、パリのサン=ジェルマン、フォンテーヌブローにもあったが、1682年からフランス革命の勃発する1789年までは、一時期を除いてヴェルサイユ宮殿に置かれた。政治の中心がパリから離れ、王を頂点とした宮廷で行われるようになったことは、政治の実権を貴族や聖職者の手から国王のもとに集中させる意味もあったが、パリの民衆から国王は遠い存在となり、関係が希薄になった面もある。フランス革命の勃発した1789年の10月、食糧高騰に激昂したパリの女性たちがヴェルサイユ宮殿まで行進し、国王に人権宣言への署名とパンの配給を迫り、ついには国王夫妻をパリに連れ戻すという、ヴェルサイユ行進という事件が起こった。その結果、国王は約100年ぶりにパリに戻った。

近現代史の舞台

 ヴェルサイユ宮殿は、その後の世界史でもたびたび登場する。ナポレオン3世がプロイセンのビスマルクの挑発に乗せられて始まった普仏戦争は一方的な敗北となり、1871年1月8日にはヴェルサイユ宮殿鏡の間でドイツ帝国皇帝の戴冠式を挙行した。敵国の宮殿で戴冠式を行うという、最大の屈辱を与えたこととなる。フランスはこの時の屈辱に対する報復として、第一次世界大戦でドイツが敗れると、その講和条約であるヴェルサイユ条約の調印式をあえてヴェルサイユ宮殿鏡の間で行い、ドイツにとって屈辱的な条約の調印をさせたのだった。
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ノートの参照
9章1節 エ.ルイ14世の時代