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大西洋革命

17~18世紀に太平洋を挟んで連鎖的に展開された、イギリスの産業革命、アメリカ独立革命、フランス革命、さらにラテンアメリカ諸国の独立を一つの動きとしてとらえた見方。

 アメリカ大陸がヨーロッパ大陸の人々に知られるようになったのは15世紀の末であったが、両大陸間に横たわる大西洋は、次第に世界史の重要な舞台となっていった。16世紀には主としてスペインによる新大陸征服のルートとされていたが、17~18世紀にかけては新大陸において激しい英仏植民地戦争(第2次英仏百年戦争)を戦う船団が盛んに往復した。両国は旧大陸でも覇権を競っていたが、七年戦争と同時に展開されたフレンチ=インディアン戦争の結果、イギリスの優位が確立した。イギリスは新大陸における優位を背景に、大西洋を支配し、いわゆる三角貿易を展開、そこで蓄えられた資本は、18世紀の産業革命(第1次)の基盤の一つとなった。しかし、植民地戦争は両国に強い影響を与えることになった。イギリスはこのころから戦費を国債でまかなうようになっていたが、その償還の財源として13植民地に対する課税を強化した。それに対して植民地側は「代表なくして課税なし」と主張して反発を強め、ついにはアメリカ独立戦争を起こすことになる。またフランスも戦争や宮廷の奢侈によってブルボン朝の財政破綻が明らかになり、貴族への課税強化策をとるために開催した三部会をきっかけにフランス革命が勃発する。このように18世紀中頃のアメリカ独立革命フランス革命、そしてイギリスの産業革命という重要な動きが大西洋を挟んで展開されることとなった。これを二重革命ととらえることもできる。さらに、アメリカ合衆国の建国と、フランス革命とその後のナポレオン戦争でスペインが征服された影響で、ラテンアメリカの独立が続くという余波をもたらした。このような互いに結びついて起こった革命の連鎖を「大西洋革命」ととらえることができる。
 これらの革命に共通することはどのようなことだろうか。それは、それまでの貴族や大地主といった支配階級と、それに支えられた絶対王権が倒されるか制限が加えられるようになり、市民が政治的、経済的自由を獲得したことにある。市民的自由を前提として、資本主義経済を基本とする社会、つまり近代社会に移行した。そしてこの大西洋を軸に拡張された西欧世界が、他のアジアやアフリカなどの地域に対する植民地支配を強めていく時代が始まるのである。「大西洋革命」はそのような市民革命と共に西欧の優位という次の19~20世紀前半の世界史を生み出した変革であった、といえる。
 「大西洋革命」の中で登場したアメリカ合衆国は、世界史上、建国当初から国王や貴族の存在しない共和政を規定したアメリカ合衆国憲法を持った国家として最初のものであった。建国当初は東海岸13州の連合国家に過ぎず、その将来の繁栄を約束されていたわけではなかった。内部にも連邦派(フェデラリスト)反連邦派(アンチフェデラリスト)の対立、13州の地域的な違い、さらにはインディアン問題などを抱え、統一国家としての歩みは弱々しいものに過ぎなかった。しかしアメリカ合衆国にはヨーロッパの旧国家にはない、豊富な資源、広大な未知の大地が背後に広がっていた。その独立も、イギリス本国が植民地側の西漸運動を押さえたことに対する反発もあったのであり、独立達成はその動きに弾みをつけることになった。1803年にはナポレオンからルイジアナを買収して西部への領土拡張を本格化させ、さらに第二次独立戦争とも言われるアメリカ=イギリス戦争に勝利したことで独立を維持した。しかしアメリカ合衆国が大国として世界史の中で重要な位置づけを獲得するのは、19世紀後半の南北戦争という苦難を経なければならなかった。
 フランス革命は、ブルボン王朝という絶対主義が1789年の市民によるバスティーユ蜂起から見る間に崩壊への過程が始まり、世界を驚かせた。そこで打ち出された「人権宣言」は、アメリカの「独立宣言」と共に現代に至る市民社会の原則をうたいあげた市民革命の金字塔とされている。もちろん、フランス革命も単純なものではなく、急進派と穏健派の対立は複雑な経過をたどり、しばし血なまぐさいテロと暴動とを惹起している。特に革命を推し進めたジャコバン派のロベスピエールが反対派に対して行った粛清は恐怖政治としてその反動を呼び起こした。結果的に革命の混乱はナポレオンという独裁者を生み出し、ナポレオン戦争はふたたびヨーロッパを戦乱の時代に戻すこととなって、その没落後は王政復古し、ヨーロッパ全土でも絶対主義体制を復活させたウィーン体制の時代となる。しかし、フランス革命で始まった市民の自由と平等の実現へむけての要求はその後も基本的な歴史の原動力となっていった。
 アメリカ合衆国の独立はイギリスにとって大きな痛手であったが、すでに始まっていた産業革命はイギリスの経済的優位を揺るがすことはなかった。ナポレオンの征服活動も、イギリス侵略だけは実行することができず、その海上覇権を奪うことはできなかった。その大陸封鎖令はイギリスの工業製品の輸入と、イギリスへの工業原料・食料の輸出で成り立っていたヨーロッパ諸国にとっては耐えがたいことであり、結局ナポレオンに対する反発を強め、その没落をもたらすこととなった。イギリスは産業資本家層の成長を背景に、政治体制では議会制政党政治を発展させ、経済政策では重商主義から自由貿易主義に転換させるとともに広大な植民地経営に乗り出し、19世紀後半の「大英帝国」(第二帝国)の時代を実現させた。
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