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ミラノ蜂起

1848年、イタリアのミラノで起こったオーストリアからの独立を求めた暴動。「ミラノの五日間」と言われる志願戦を展開し、一次独立と共和国樹立に成功したが、ラデツキー指揮のオーストリア軍によって鎮圧された。

 北イタリアのロンバルディアの中心都市ミラノは、18世紀初頭のスペイン継承戦争の結果、ラシュタット条約によってスペインからオーストリア=ハプスブルク家領に譲られたので、オーストリアの支配を受けていた。一時、ナポレオンが北イタリアに作ったチザルピナ共和国の首都となったが、ナポレオン没落のウィーン会議の結果、ウィーン議定書でオーストリア支配が復活し、ロンバルト=ヴェネト王国という傀儡国家が作られた。王国といってもオーストリアから総督が派遣され、その属国として直接支配を受けていた。

オーストリアからの独立運動

 オーストリア帝国は多民族国家として多くの民族を支配下においたが、北イタリアもその一つであった。ウィーン体制下で自由主義とナショナリズムが高揚し、その影響が北イタリアにも及んだ。1848年、ウィーン三月革命が起こってメッテルニヒが失脚したことを知ったミラノ市民が蜂起した。これは1848年の諸国民の春といわれた民族独立運動であるとともに、市民的な自由の実現も目指した運動であったので、ミラノ革命と言うこともある。 → 1848年革命

Episode ミラノの煙草ストライキ

 1848年のミラノ革命とも言われる市民蜂起は、1月1日の「煙草ストライキ」から始まった。
(引用)煙草ストライキとは、専売煙草の高額な税金に抗議して、「平和的に、しかし効果的に」、ミラノ市民が行った禁煙運動である。煙草ストライキが組織的なものではなく自然発生的に拡大したことに、ミラノ民衆の反オーストリア感情を見ることができる。その背景には、1846年の凶作によって多くの農民が食糧を求めて都市に流入し、1847年後半から社会擾乱が拡大していたこともある。裕福な市民や貴族たちが葉巻をくゆらしながら街を散歩し、地人たちと新年のあいさつを交わすのが毎年の元日の一般的な街の光景であった。しかし、1848年の新年は様子が違った。兵舎から街に出たオーストリア軍兵士は、当時にあって一種のステイタス・シンボルであった葉巻を誰も口にしていないのに驚いた。誰からともなく、市民に禁煙の指示が広まっていたのである。情報が伝わらず、葉巻を口にくわえている人からは、「愛国的に」と言葉をかけて、それが遠慮なくもぎ取られた。元日は大きな混乱もなく終わったが、二日目は状況が異なった。クロアチア人、ハンガリー人、スロヴェニア人を含むオーストリア軍兵士が口に二本の葉巻をくわえて街を闊歩し、行きかう人に煙草の煙を吹きかけ、挑発行動に出たのとで、いたるところで市民との小競り合いが起こった。このように、イタリアの1848年は始まった。<藤沢房俊『「イタリア」誕生の物語』2012 講談社選書メチエ p.114>

“ミラノの5日間”

 同じ1848年1月、シチリア島のパレルモで憲法制定を求める暴動が起き、両シチリア王国のナポリ王が憲法制定を約束したことから始まり、トスカーナ大公国やサルデーニャ王国でも憲法が制定された。そのような中、フランスの二月革命に続き、ウィーンでも三月革命が起きたことがミラノに伝わると、1月の煙草ストライキで高まっていた反オーストリア感情が爆発し、3月18日に「ミラノの五日間」といわれる民衆蜂起が起こった。
 ミラノを守備するオーストリア軍のラデツキー将軍は、120人の市民を人質に取りスフォルツァ城や市庁舎、ドゥオーモを含む市の中心部に立てこもった。武装したミラノ市民は、5日間の凄惨な市街戦の後、3月22日にオーストリア守備隊を町から追い出し、共和政を樹立を宣言した。この勝利を“ミラノの5日間”ともいう。
 サルデーニャ王国の国王カルロ=アルベルトは支援を躊躇したが、カヴールなどの臣下も即刻の参戦を主張、軍隊をロンバルディアに進撃させて、ピエモンテとの合併を宣言し、それを承認させるための住民投票を表明した。
 その上で、5月に軍を進めてオーストリア軍との戦いを開始、第1次独立戦争が始まったが、7月のクストーヅァの戦いで、態勢を立て直したラデツキー将軍に率いられたオーストリア軍に敗れた。カルロ=アルベルトはロンバルディアをオーストリアに返還したため、イタリア各地の革命運動は急速に衰退した。ヴェネツィアの共和政もミラノと同じく崩壊し、北イタリアは再びオーストリアの支配下に入った。
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書籍案内

藤沢房俊
『「イタリア」誕生の物語』
2012 講談社選書メチエ