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カルロ=アルベルト

イタリアのサルデーニャ王国、サヴォイア家の国王。1848年、オーストリアからの独立戦争を開始するも敗れて退位。ヴィットーリオ=エマヌエーレ2世の父。

 イタリアとフランスの国境地帯であるピエモンテと地中海上のサルデーニャ島を合わせて支配していたサルデーニャ王国は、1820年代以降、揺れ動くイタリア各国のなかで、次第に地歩を固めつつあった。1831年4月、サルデーニャ王国の王位についたカルロ=アルベルトは、フランスで育ち、ナポレオン軍に勤め、フランス的教養を身につけていたため、それまでの専制的な国王にかわる、開明的な国王として期待された。。そのころ、青年イタリアを結成し共和政によるイタリア統一を構想したマッツィーニも、当面するイタリアの統一という点ではカルロ=アルベルトに期待し公開書簡を送るほどだった。しかし、宮廷内には保守派の勢力が強く、フランスの七月革命が及ぶことを恐れ、オーストリアとの提携が強化され、マッツィーニには帰国したら逮捕するという逮捕状が出された。

第一次独立戦争を起こす

 1848年、フランスの二月革命が起こると、全ヨーロッパに広がった共和主義、立憲主義の運動はサルデーニャ王国にも及んだ。カルロ=アルベルト国王は共和派の要求を入れて憲法を制定し、立憲君主国の体制を採ることに合意した。続いてウィーン三月革命が起こり、オーストリア領ロンバルディアの中心都市であるミラノで市民が蜂起し、独立運動が激化すると、カルロ=アルベルトはそれを助けてオーストリアに対して宣戦布告した。これは、第一次イタリア独立戦争、あるいは解放戦争、イタリア=オーストリア戦争ともいわれ、後のイタリア統一戦争(第2次)の先駆的な動きであり、イタリア統一(リソルジメント)の重要な一歩となった。

オーストリアとの戦いで敗れる

 しかしカルロ=アルベルトの本心はミラノの独立を支援するより、王国の領土の拡張にあったので、共和派との連携はうまくいかず、「ミラノの5日間」と言われたミラノ市民の戦いを援護することができず、オーストリア軍に大敗してしまった。翌49年にもオーストリア軍と戦ったが再び敗れ、退位して亡命し、王位を息子のヴィットーリオ=エマヌエーレ2世に譲った。<クリストファー・ダカン『イタリアの歴史』2005 p.160-165>
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