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ロンバルディア

北イタリアのポー川沿岸の平野一帯の地名。中心都市はミラノ。近代では工業都市が発達。

 ロンバルディアの地名は、かつてこの地を支配したランドバルド人に由来する。ポー川流域の平野が広がり、イタリア半島で最も生産力の高い農作物地帯であり、有力な都市が生まれ、ミラノを中心にロンバルディア同盟が形成され、ルネサンス期にはミラノ公国が栄えた。現代ではミラノを中心とした工業地帯となっている。イタリア戦争の時、カール5世に領有され、ついでフェリペ2世に譲られてからスペイン・ハプスブルク家にその支配権が継承されてきたが、18世紀初頭のスペイン継承戦争の講和条約ラシュタット条約で、スペインからオーストリア=ハプスブルク家領に譲渡された。

ナポレオンの遠征

 1796年、ナポレオンの遠征をうけ、一時オーストリアが後退し、イタリアに民族統一と独立の機運が芽生えた。ナポレオンは、北イタリアのロンバルディア、モデーナ、教皇領とヴェネツィアの一部を合わせて、衛星国家チザルピナ共和国(1802年からはイタリア王国と称する)を樹立、ミラノを首都とした。

オーストリア支配の復活

 しかし、ナポレオン没落後のウィーン会議の結果、ウィーン議定書でロンバルディアとヴェネツィアはオーストリア領となった。ウィーン体制下でオーストリア支配が続き、ロンバルド=ヴェネト王国と称する従属国であった。そのためイタリアの統一運動が活発となると、オーストリアから奪うべき地域となり、争点となった。
 1848年、ウィーン三月革命が起きると、諸国民の春と言われた民族独立の動きが北イタリアにも及び、ミラノ(ロンバルディア)とヴェネツィアで反オーストリアの暴動(革命とも言える)が起こり、一時共和政を宣言したが、それを支援したサルデーニャ王国がオーストリア軍と戦って敗れたため、オーストリアの支配が復活した。この時、オーストリア軍を指揮したのが行進曲で有名なラデツキー将軍であった。この勝利を期にオーストリアは反動に転じ、ベーメン、ハンガリーなどで革命運動も鎮圧されていく。

イタリア統一運動

 1858年、フランスとサルデーニャ王国がオーストリアに宣戦し、イタリア統一戦争の舞台となる。翌年フランスがヴィラフランカの和約でオーストリアと講和すると、ロンバルディアはフランスに譲られ、フランスから与えられる形でサルデーニャ王国に併合された。
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ノートの参照
第12章2節 オ.イタリアの統一