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マッツィーニ

19世紀イタリアの独立と統一をめざす運動の指導者。ウィーン体制下で青年イタリアを組織し、1949年にはローマ共和国を樹立した。その崩壊後も移管した今日主義者として活動、第一インターナショナルにも参加した。

Giuseppe Mazzini(1805-1872)
 イタリアの統一(リソルジメント)運動の指導者で、自由主義・共和主義者。カヴールガリバルディとならぶイタリア統一の三傑の一人であるが、最も先駆的であり、かつ最も急進的であった。

青年イタリアの結成

 はじめカルボナリに属していたが、その神秘主義的、儀式重視の手法に飽きたらず、亡命先のマルセイユで、イタリアの独立と統一、共和制国家の樹立を目指す新しい組織として1831年に「青年イタリア」を結成した。これは明確な綱領と組織原則を持つ政党としての性格を持っていた。1834年にピエモンテなどで蜂起を試みたが失敗した。

ローマ共和国

 1848年、フランスに二月革命が起こると、イタリアでも独立と統一を求める声が強まり、ウィーン三月革命でオーストリアのメッテルニヒが倒されると、ミラノ蜂起とヴェネツィアの市民蜂起が起こり、共和政を宣言した。マッツィーニも亡命から戻り、ローマで市民の蜂起を指導。翌49年2月、革命をおそれてローマ教皇ピウス9世が国外に脱出した後、ローマに「ローマ共和国」を樹立し、三人の執政の一人となった。しかし、フランスのルイ=ナポレオンは混乱に乗じてオーストリアの進出してくるのを恐れてローマに軍隊を派遣、マッツィーニらは敗れ、ローマ共和国も7月に倒れたため、彼はロンドンに亡命した。

亡命生活

 その後、イタリア統一運動はサルデーニャ王国の主導権のもとで展開され、マッツィーニは国外からミラノやジェノヴァの革命運動を支援したが、共和政による統一国家という思想は実現されず、ガリバルディが征服した南イタリアをサルデーニャ王に献上したことによって1861年にイタリア王国という君主政国家として統一されることとなった。

ヨーロッパでのマッツィーニ

 1864年、マルクスらがロンドンで第一インターナショナルを結成するとマッツィーニもそれに参加した。しかしまもなくマルクスとの意見の対立から脱退した。その他、彼はヨーロッパ統合の運動を起こすなど、イタリアの独立に止まらない、先験的な活動を展開した。イタリアでも人気が高く、1866年には国会議員に選出されたが、彼は王政反対の意志を貫いて拒否した。1870年ようやく帰国したが、72年にピサで死去した。
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ノートの参照
第12章2節 オ.イタリアの統一