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カヴール

サルデーニャ王国の首相で、イタリア統一を主導し、立憲君主国イタリア王国を実現させた。

カヴール
Camillo Benso Cavour(1810-1861)
1852年からサルデーニャ王国ヴィットーリオ=エマヌエーレ2世のもとでの首相を務める。イギリスの立憲政治・フランスの産業振興策などに学び、農業生産の拡大、鉄道・灌漑施設・銀行などの建設、ローマ教皇の影響力の削減(世俗化の推進)、などの近代化政策を遂行する一方、巧みな外交でサルデーニャ王国をイタリアの統一(リソルジメント)の軸に仕上げた。

クリミア戦争への参戦

 カヴールは、1855年、イギリス・フランスの要請で、クリミア戦争に参戦し、オーストリアとも共同してロシアと戦った。56年のパリ講和会議でもサルデーニャの国際的地位を高めることに成功した。国内には、イタリア支配を続けるオーストリアと組むことに強い反発があったが、カヴールはサルデーニャの国際的地位を強化するにはフランスと結んでおくことが大事と考え、そのためにオーストリアに一時的に与することもやむなし、と判断した。その見通しは成功し、クリミア戦争でフランスを支持したことでナポレオン3世との関係を強化し、オーストリアとの戦争に備えることができた。

イタリア統一戦争と外交かけひき

 1858年、フランスのナポレオン3世と、「プロンビエールの密約」を結んだ。フランスはサルデーニャのオーストリアとの戦争を支援、そのかわりサルデーニャはサヴォイアとニースをフランスに割譲するという内容だった。フランスの支援を得たカヴールは、オーストリアに宣戦、イタリア統一戦争(1859年4月)が始まる。サルデーニャが有利に戦いを進めたが、7月、ナポレオン3世はカヴールにはからずオーストリアと和約(ヴィラフランカの和約)してしまう。ナポレオン3世は、戦争の長期化がフランス国内の反発を増すことを恐れた。怒ったカヴールは一時首相を辞任した。

イタリア統一へ

しかし、一方でマッツィーニなどの共和派による統一運動が盛んになってきたことに対し、立憲君主政体による統一を目指していたカヴールは危機感を募らせて首相に復帰し、再びナポレオン3世と協議し、1860年に中部イタリアを併合する代償にサヴォイアニースのフランスへの割譲を約束、サルデーニャ王国によるイタリア統一の主導権を維持しようとした。カヴールの政策に反発したガリバルディが独自にシチリア遠征に向かうとそれを妨害しようとしたが失敗し、ガリバルディの占領したシチリアとナポリに住民投票を働きかけ、サルデーニャ国王のもとへの併合を可決させた。一方で国王は急ぎ南下してローマ教皇領に進軍し、60年10月25日に会見したガリバルディから南イタリアの統治権を献上させた。こうしてサルデーニャ王国によるイタリア統一という路線を完成させたカヴールは、イタリア王国の成立を見届け、61年6月病に倒れ急死した。
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ノートの参照
第12章2節 オ.イタリアの統一