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ビスマルク外交/ビスマルク体制

1871年から1890年までのドイツ帝国を主導したビスマルクの外交政策とそれによって成立したヨーロッパの国際秩序をビスマルク外交、またはビスマルク体制という。フランスの再起に備え、列強の対立のバランスをとりながらヨーロッパの安全保障を図ったが、その秘密軍事同盟の手法は後に世界大戦の要因となった。

プロイセン王国、およびドイツ帝国の首相兼外相ビスマルクの外交政策。特に1971年のドイツ帝国の成立から、辞任した1890年まで、ビスマルクが強力な指導力によってヨーロッパ各国の関係をコントロールしたことを言う。その帝国の安全保障を優先した巧妙な外交は「保障政策」と言われ、1870~80年代のヨーロッパをリードした。このビスマルク外交によって複雑な軍事秘密同盟関係によるヨーロッパの国際秩序であるビスマルク体制が出来上がった。

ビスマルク時代の国際情勢

 ビスマルク時代の対立軸は当のドイツとフランスであり、ビスマルクの最も警戒したのはフランスの復活とドイツに対する復讐心であった。オーストリアとは普墺戦争で戦った関係であるが同一民族であるという親近感があった。ロシアとはプロイセン時代から関係が深く、フランスと事を構えた場合に背後からの脅威となるので、手を結んでおかなければならなかった。何よりもロシアとフランスが手を結ぶことは避けなければならない。イギリスとの間では経済上の競争相手であるが相互に依存している面もあり、この時代にはまだ植民地で衝突するということはなかった。その他の対立軸は、バルカンにおけるオーストリアとロシア、未回収のイタリアを巡るオーストリアとイタリアの対立があった。

ビスマルク外交の展開

:ビスマルクの最大の関心は、普仏戦争後に敗れたフランスが、再びドイツの脅威とならないように抑え込んでおくことであった。そのためには理念や情念に左右されることなく、現実的な国益の判断だけであり、また同時に冒険的な領土拡張には抑制的であった。
三帝同盟 そのために、まずドイツの背後にあるロシアとオーストリアとの同盟関係を強めることをねらい、1873年に三帝同盟を結成した。特にドイツがフランスとロシアの両国と戦うことは東西両面に敵をおくことなるので何としても避けなければならないと考え、フランスとロシアが同盟することを最も恐れた。(ビスマルクが恐れたことはその後第1次世界大戦、さらに第2次世界大戦で現実のものとなり、その二度ともドイツの敗北となった。)
ベルリン会議 また、ビスマルクはヨーロッパの秩序の安定がドイツの安定の前提と考え、その維持に努めた。とくにバルカン問題ではロシアとオーストリア間の対立要因があり、放置すると三帝同盟崩壊につながるため、いわゆる「東方問題」の解決にあたった。1877~78年、ロシアがオスマン帝国との戦争に踏み切り(露土戦争)、サン=ステファノ条約でバルカンに大きな足がかりを作った。これはオーストリアにとっては許せないことであり、またイギリスはロシアが東地中海、西アジアに進出することでインド経営にとって脅威となる事を恐れ、強く反発した。ビスマルクは、1878年、ベルリン会議を主催し「公正なる仲介人」としてその調停に乗り出し、結果的にイギリス・オーストリアに有利に、ロシアは獲得した多くの権益を放棄せざるを得なくなった。
三国同盟 これはビスマルクの調整の失敗であり、ロシアは反ドイツ感情を持つこととなった。それを受けてビスマルクはオーストリアとの間で1879年に独墺同盟を結んだ。1866年に戦った相手とわずか13年で同盟を結ぶという、ビスマルクの現実的な変わり身の速さを示していた。さらに1881年には、新三帝同盟(三帝協商ともいう)を結成し、1882年にはフランスを仮想敵国とするオーストリア、イタリアとの間で三国同盟を締結した。しかし、三帝同盟がブルガリアを巡るロシア・オーストリアの対立から延長されず、1887年に解消されると、同年、ロシアとの間に再保障条約(二重保障条約)を締結した。これらは秘密軍事同盟であり、巧妙にヨーロッパ大陸の列強間のバランスをとって勢力を均衡させ、安全保障とするものであった。
アフリカ分割の調停 1884~85年のベルリン会議を主催しをアフリカ分割に関する調停を行い、トーゴ、カメルーン、ドイツ領東アフリカ、ドイツ領南西アフリカの4地域をドイツ帝国の保護領として宣言した。

ビスマルク外交の終焉

 このようなドイツの安全を他のヨーロッパ列強の関係を利用しながら維持するという姿勢は、1888年に新たに皇帝となったヴィルヘルム2世には消極的ととらえられ、1890年にビスマルクは罷免され、外交的な駆け引きで列強がバランスをとる時代は終わり、列強が軍備増強を競い、力で決着を付ける帝国主義時代に入ることとなった。

ビスマルク外交の特質

 セバスチャン=ハフナーの『ドイツ帝国の興亡 ビスマルクからヒトラーへ』によると、ビスマルクの外交政策は、きわめて厳格な「断念」を意味しており、それは次の5点に要約できるという。
1.ヨーロッパでのどのような領土の拡張も断念すること。
2.どいつのあらゆる膨張主義的運動、特に大ドイツ主義的運動を抑圧すること。
3.オーストリアとバルト沿岸にいるドイツ人を併合しようという願望を持たないこと。
4.他のヨーロッパ列強の海外植民地政策への不参加を厳守すること。
5.ドイツが関与していなくともヨーロッパ内の戦争を積極的に阻止すること。
 ビスマルクというと、軍国主義者というイメージから、領土拡張を積極的に進めたのではないかと思われがちであるが、そうではなかった。彼の外交政策は、常に現実的であり、抑制的であった。次のヴィルヘルム2世のドイツやヒトラーのドイツとは著しい違いを見せていることに注意を払っておくべきであろう。なお、5.についてはアフリカ分割に加わっているから当てはまらないとも思えるが、ハフナーによれば、植民地政策にはほとんど関心が無かったビスマルクがその終わりごろになって、1884~5年に植民地積極策に転じたのは、老齢のヴィルヘルム1世の退陣が近づき、後継が予定されていた皇太子フリードリヒがイギリス人の妻の影響で親イギリスに傾くことを警戒し、植民地問題で反イギリスの雰囲気を作ろうとしたのではないか、事実、後のこの皇太子が不治の病に冒されるとビスマルクは「植民地政策を熱いジャガイモのように投げ捨てた」という。<セバスティアン・ハフナー/山田義顕訳『ドイツ帝国の興亡 ビスマルクからヒトラーへ』1989 平凡社 p.62-67>
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第12章2節 カ.ドイツの統一
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セバスティアン・ハフナー/山田義顕訳
『ドイツ帝国の興亡 ビスマルクからヒトラーへ』
1989 平凡社