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自治領/ドミニオン

イギリス植民地の中の白人支配地に自治権が与えられて成立した。「自治領」といわれるが実質的には独立国。1867年のカナダにはじまり、以後、オーストラリア、ニュージーランド、南アフリカ、アイルランドが続く。1887年からはイギリス植民地会議、1907年からは帝国会議、1944年からはイギリス連邦(コモンウェルス)会議をそれぞれ構成した。

 19世紀後半のイギリスにおける自治領とは、国家元首としてイギリス国王を戴き、外交・国防・通貨などは本国イギリスの統治下にあり、経済的にも本国経済を支える位置に置かれているが、その他の現地における民政一般については独自の議会と政府を有しているという半独立国家形態であり、英語ではドミニオン(Dominion)といった。
「自治領」という訳語の適否 なお、Dominion を「自治領」と訳すことに対しては、「領」では従属製が強調されて適切ではない、という指摘がある。それぞれイギリス王をいただく君主国であるが、議会と内閣という内政の責任能力をもち、1911年からは独自の海軍を持ち、23年からは国際条約も締結できる独立国であったので、「自治国」というのが正しい。<近藤和彦『イギリス史10講』2013 岩波新書 p.254>
 イギリスの「自治領」に対する政策は、日本から見ると解り辛い面があり、教科書でも不十分なので、以下に秋田茂氏の近著『イギリス帝国の歴史』(中公新書)などをもとに、若干の説明をしておく。

チェンバレンの目論見

 本国と自治領政府との協議機関として、定期的に開催されたイギリス植民地会議は、当初はイギリス王室の祝賀行事(ジュビリー)と密接に結びついていた。第1回の植民地会議は1887年のヴィクトリア女王即位50周年記念式典と合わせて開催され、1897年の第2回は同じく即位60周年記念式典に合わせて開催された。しかし、本国側と自治領側の意図は少しずつ食い違いを見せていた。
 帝国主義政策を進めた植民地相ジョゼフ=チェンバレンは白人自治領との緊密に連携した帝国連合を形成しようとして、帝国内の自由貿易(自治領側が関税を撤廃する)と本国に対する帝国特恵(食糧や原料を安価に提供する)、さらに自治領に帝国防衛の経費を分担を求めて軍事同盟を結成することを構想した。しかし、1897年の植民地会議ではこの帝国連合構想は、自治領側に拒否されて、成立しなかった。 → イギリス第二帝国

自治領の連邦化

 すでに1867年のカナダは自治植民地の連邦として自治領となっていたが、20世紀にはいると他の自治領にも連邦化が進展した。1901年にオーストラリア連邦が結成され、非白人系移民を排除する白濠主義が導入された。1902年、エドワード7世の戴冠式に合わせて開催された第3回植民地会議では、オーストラリアとニュージーランドが帝国海軍への献金を承認している。そのニュージーランドは1907年に自治領となった。南アフリカでは自治権を与えられていた旧トランスヴァール共和国、旧オレンジ自由国にケープ、ナタールの二つの植民地を加えて、1910年に南アフリカ連邦が成立した。同時に、白人の優越が法律で制度化されて、後のアパルトヘイト(人種隔離政策)の原型が確立した。

植民地会議から帝国会議へ

 1907年に開催された第4回からイギリス帝国会議と改称し、それ以降はカナダ・オーストラリア・ニュージーランド(10年から南アフリカ連邦が加わる)が参加し、この会議から自治領諸国はドミニオンと称し、イギリス本国との対等な関係を模索し始めた。1911年のジョージ5世の戴冠式に合わせた第5回(植民地会議から通算する)帝国会議では海軍による帝国の防衛が議論され、カナダとオーストラリアは本国海軍の指揮系統とは異なる別個の海軍を創設することが認められた。

第一次世界大戦と自治領

 第一次世界大戦へのイギリスの参戦は自治領を含むイギリス植民地の意志に関係なく宣言された。親ドイツ的なアフリカーナーを抱えた南アフリカを除くドミニオン(自治領)は即座に本国政府の決定に同意し、軍隊の派遣に着手した。その結果、カナダは45万8千、オーストラリアは33万1千、ニュージーランドは11万2千、のちに南アフリカは7万6千を派遣した。これらの自治領の協力は結果的に戦後の本国からの自立性をさらに強めた。
 自治領諸国(ドミニオン)は戦後のパリ講和会議への参加、ヴェルサイユ条約への独自の調印権、国際連盟への代表権も認められた。イギリスを「後見人」とする変則的なかたちであったが、国際社会に事実上の独立国家として登場した。さらに、南アフリカ連邦は南西アフリカを、オーストラリアはニューギニアとビスマルク諸島を、ニュージーランドは西サモアを国際連盟から委任統治領として任された。

アイルランド自由国の成立

 アイルランドは白人だけのイギリス植民地であったが、特殊なイギリスとの関係からアイルランド問題が長期化しており、イギリスに対する反発が強かった。またイギリス国内にもアイルランドの分離独立に根強い反対があったことからアイルランド自治法案はたびたび葬られ、1914年に成立したアイルランド自治法も戦争終了まで棚上げとなった。第一次世界大戦には正式な派兵はしなかったが、義勇兵がイギリス軍に参加した。大戦中のイースター蜂起は鎮圧されたが、戦後の1918年には独立宣言を発表してイギリスからの独立戦争を展開した。ようやくイギリス政府は北部アイルランドをイギリス連合王国に残すことを条件に南部の独立を認め、1922年に自治領(ドミニオン)としてアイルランド自由国が成立し、イギリス帝国会議に参加することとなった。しかし南部アイルランドでは全アイルランドの独立を主張する勢力との内戦が始まることとなる。

イギリス連邦の形成

 第一次世界大戦から第二次世界大戦の間の、いわゆる「大戦間」時代は、イギリス帝国が解体されていく過程であった。帝国を最終的な解体へと導く過渡的な役割を担ったのは、1926年の帝国会議と1931年のウェストミンスター憲章によって成立したイギリス連邦(ブリティッシュ=コモンウェルス)によってであった。
 1926年の帝国会議では、南アフリカとアイルランドが、主権国家として自国の独立性を強く主張し、その確認が得られない場合、帝国からの離脱を示唆した。そのため会議は、本国の元首相バルフォアを委員長とする委員会で討議を重ね、本国と自治領(ドミニオン)の地位が対等であるとするバルフォア報告書を提出した。この報告にもとづいて、1930年の帝国会議は自治領の地位を承認し、これらの諸国はイギリス領コモンウェルス(the British Commonwealth of Nations)とすることを決定した。さらにそれにもとづいて、翌1931年12月、ウェストミンスター憲章が出された。
ウェストミンスター憲章 ウェストミンスター憲章はイギリス本国とカナダオーストラリアニュージーランド南アフリカ連邦アイルランド自由国ニューファンドランド(1713年からイギリス領。カナダとは別個な自治領であったが1949年にカナダ連邦に加入)の6ヵ国は、平等・対等な関係であると宣言した。これによって自治領(ドミニオン)は終わり、それぞれが完全な独立国となった。同時にこれらの諸国はイギリス連邦(イギリス領コモンウェルス)を構成することとなった。<以上、秋田茂『イギリス帝国の歴史』2012 中公新書 p.189-202/川北稔・木畑洋一編『イギリスの歴史―帝国=コモンウェルスの歩み』2000 有斐閣アルマ>
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第14章1節 イ.イギリス
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秋田茂
『イギリス帝国の歴史』
2012 中公新書

川北稔・木畑洋一編
『イギリスの歴史―帝国=コモンウェルスの歩み』
2000 有斐閣アルマ