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変法/変法運動/戊戌の変法/変法自強

1898年、帝国主義の侵略という危機の中で始まった清朝の近代化をめざした改革。光緒帝のもとで康有為、梁啓超など改革派によって進められたが、西太后などの保守派にのクーデター(戊戌の政変)によって挫折させられた。

 日清戦争の敗北後、イギリス・ドイツ・フランス・ロシアの利権獲得競争にさらされ、列強による中国分割が進み、清朝の動揺が激しくなった。それに対して清朝政府の中から、従来の洋務運動(清朝体制をそのままにして西洋の技術だけを取り入れようという運動)の限界を克服し、隣国の日本の明治維新にならった政治体制の変革・近代化が必要であると認識されるようになった。その指導者は公羊学者の康有為であり、その基本思想は清朝の皇帝のもとで、西洋の立憲君主政を取り入れ、議会を開設して国民の声を聞く政治の近代化を目指したものであった。このような祖宗以来の清朝の政治のあり方である「成法」を変えることを「変成法」と言い、その略称として「変法」と言われた。また、この運動は「変法運動」ともいわれ、その精神として掲げられたのが、変法自強という言葉だった。
 康有為が建白書を提出し、運動が始まった1898年の干支が戊戌であったので、「戊戌の変法」とも言われ、戊戌維新(ぼじゅついしん)とも言われた。康有為ら改革派官僚は光緒帝のもとで清朝政府に登用され、改革が進むかと思われたが、結局、西太后らの保守派の反撃によって失敗し、戊戌の政変といわれる政治的動揺が起こった。

改革の中心

 1898年初め、光緒帝は、康有為梁啓超・譚嗣同らの若手改革派官僚を登用した。1886年以来、西太后は引退し光緒帝の親政となっていたが、西太后の権威と影響力は強く、宮中では保守派が占められていた。宮中で孤立していた光緒帝は中央官庁の官僚以外にも地方官僚、一般人が意見書を提出することを許し、それを厳封のまま皇帝の手元に届くようにした。

改革の内容

 1898年4月23日、光緒帝は新政の基本をのべた詔勅を発表、改革が開始された。まず、科挙の改革ではそれまでの儒教経典の暗記力と作文能力を問う内容に換えて時事問題を論じる策論によることとした。次に各省・府県などの儒教的教育機関であった書院を中国学と西洋学を併せて学ぶ学校に改造した。また中央に京師大学堂を置いて最高学府とし、農工商・鉱山・鉄道・医学などの専門学校を各地に設け、卒業生を官吏に登用することとした。その他、官庁や兵員の無駄を省く行政整理をおこなった。

保守派の反撃

 宮中の保守派官僚は、光緒帝の新政を清朝の成法をくつがえすものとして一斉に反発した。新政に対する抵抗の根源が西太后にあることに悩んだ光緒帝は康有為らとはかって、天津の新軍を統率する実力者であった袁世凱の力を借りて西太后を西山の離宮に押し込めるクーデタを計画した。しかし袁世凱の寝返りによって失敗し、光緒帝は幽閉されてしまった。康有為と梁啓超はひそかに国外に逃れたが、譚嗣同は捕らえられて処刑され、改革運動は弾圧されて終わった。わずか3ヶ月程度で新政は終わりを告げたので百日維新と言われる。またこの政変は戊戌の政変ともいう。

戊戌の変法の意義と限界

 戊戌の変法は、列強の帝国主義侵略に対して、権力の内部から政治組織・官僚組織・教育・兵制・産業などの近代化を図ることによって中国を守ろうとするものであった。しかしそれを支えたのは少数の改革派官僚に止まり、国民的広がりはなく、宮中の保守派によって排除されてしまった。戊戌の変法の失敗の後、中国民衆の中には宗教的感情を強く持った排外思想が強まり、義和団事件という民衆暴動に転化していく。
 復権した西太后は、新政を否定して改革派を一掃した。1900年に義和団事件が勃発すると、西欧列強に宣戦布告したが、北京を外国軍に占領されて敗北し、北京議定書で外国軍の北京駐在などを認め、帝国主義諸国への従属の度合いを強めた。清朝の存続がいよいよ危うくなったので、西太后はようやく改革の重い腰を上げた。それが1901年からの光緒新政(光緒帝は幽閉されており実権はなく、光緒年間の改革という意味)であるが、その内容は戊戌の変法の焼き直しに過ぎなかった。しかし光緒新政の中に、康有為らの変法の思想は生かされていたと言うこともできる。

戊戌の変法の遺産

 戊戌の変法で取り上げられた改革はほとんど陽の目を見なかったが、唯一実現したのが西洋式の大学の創設を目指した京師大学堂である。1898年に創設された京師大学堂は、後に北京大学と改称され、蔡元培学長の下で文学革命や、五・四運動の中心となり、中国近代化を牽引する役割を果たしていく。
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