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自衛隊

GHQの指令で始まった再軍備の結果として、日本国憲法第9条の軍備法規の規定にかかわらず、1954年に設置された軍隊。

 アメリカ合衆国は連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)による日本占領政策の基本として日本軍国主義を壊滅させることを挙げ、日本の軍備廃止、日本軍は解体された。それをうけてわが国は平和主義を実現させ、1946年5月3日に戦争とその手段としての軍備を放棄した日本国憲法を制定、施行した。
 ところが、アジアにおける1949年の中華人民共和国の成立、翌年の朝鮮戦争の勃発という国際情勢の激変を受け、アジアの共産化を恐れたアメリカは、日本を再軍備させ、対共産圏包囲網の一員とすることに大きく舵を切った。こうして朝鮮戦争勃発直後の1950年7月8日に警察予備隊が創設された。アメリカはその後、1951年に相互安全保障法(MSA)を制定して、経済援助と軍事同盟強化を一体化する政策に転換し、日本に対しても1954年にMSA協定を締結した。それに基づいて、吉田内閣は同1954年7月1日、それまでの保安庁を改組して防衛庁を設け、その統轄下に陸・海・空の三自衛隊を設置した。
 自衛隊は現実的には軍隊であることは紛れもなく、日本国憲法第9条に規定する軍備の放棄に反する存在である。吉田内閣以来、歴代内閣は、最近の民主党政権も含めて、憲法は自衛権まで否定するものではないので、国民生活の安全を維持するための自衛隊の存在は違憲ではないという解釈をとっている。同時にそれはあくまで専守防衛という原則の範囲という制限が課せられている、ともされている。いずれにせよ、アメリカの要請によって日本国憲法のもとで実質的な軍隊である自衛隊が創設されたことは、日本国憲法の解釈上許されないとして違憲裁判が起こされ、また憲法改正を主張する政治勢力が台頭するなど、戦後日本の最大の問題となっている。 → 「日本国憲法」改憲の動き

自衛隊の創設までのまとめ

1950年7月 朝鮮戦争の勃発を受けGHQの指令で警察予備隊を創設。隊員7万5千。
1952年8月 警察予備隊を保安隊に改組。保安庁を設置。これは日米安全保障条約の成立に対応したもので、日米共同防衛の可能な自衛力とするため、海上部門を加えた。隊員を11万に増員。
1954年7月 自衛隊創設 防衛二法(防衛庁設置法・自衛隊法)が成立し創設される。航空部門を加え、陸上・海上・航空の三自衛隊体制となる。当初定員約17万。
 自衛隊は、朝鮮戦争の休戦(53年)を受けて、明確に「自衛のための軍隊」を創設し冷戦に備えるというものであった。自衛隊の創設に伴い、駐留アメリカ軍に依存する旧安保条約が実態にそぐわなくなり、政府はその改定を図ることとなって安保条約改定が行われた。

自衛隊の海外派遣

 1991年湾岸戦争は、日本の自衛隊をめぐる議論を大きく転換させる契機となった。それまで自衛隊は「専守防衛」を任務が限定されるという政府見解により、海外派遣は行われてこなかったが、湾岸戦争でアメリカがクウェート奪還のために多国籍軍を編成してイラクのサダム=フセイン独裁政権を倒した際、日本は陸上部隊の派遣などの本格的参加は行わなかった。それに対してアメリカから「日本は金は出すが血は流さない」という批判が上がったとされ、にわかに政府は自衛隊派遣の検討を開始、1992年6月、国際平和協力法(通称PKO協力法)が成立し、自衛隊の海外派遣に法的な根拠が与えられた。

自衛隊合憲論の定着

 1993年の総選挙で自民党が大敗、いわゆる55年体制が終わり、細川連立政権が誕生、日本の政治情勢が大きく変動し、その混乱の中、1994年に自民党・社会党・新党さきがけの連立である村山内閣が成立、社会党党首である村山富市首相は「自衛隊は合憲」であると衆議院総会で表明、非武装中立は役割を終えたとして日米米安保体制の容認に姿勢を変えた。ながく非武装中立、自衛隊違憲、安保破棄を主張していた社会党党首のこの転換は、情勢が大きく変わり、自衛隊の存在が国民に受け入れられている実態を認めたものであった。

イラク復興支援

 さらに2001年9月11日、9.11同時多発テロ後のアメリカ軍によるアフガニスタン攻撃に際してはインド洋における給油活動を支援した。2003年3月勃発したイラク戦争では、2004年のイラク特措法に基づきフセイン政権崩壊後のイラク人道復興支援活動に、陸上自衛隊と航空自衛隊を派遣した。 → 日本の自衛隊海外派遣

防衛省への格上げ

 自衛隊は隊員約27万人、世界でも有数の「軍隊」となっている。また湾岸戦争に際して1992年から自衛隊の海外派遣が始まり、その専守防衛という原則からの逸脱ではないかと議論が続いている。そのような中で、2007年1月7日に防衛庁は「防衛省」に格上げされたが、その途端に事務次官(防衛官僚トップ)の汚職が発覚したり、イージス艦が漁船と衝突するなどの事件を起こし、その体質が問題となっている。また自衛隊幹部の中には公然と日本国憲法を否定し、「専守防衛」にとらわれず集団的自衛権を容認し、核武装や先制攻撃を可能にすべきであるという発言する者も出現した。
 また国民一般の意識も変化しており、特に2011年の3.11の東日本大震災での自衛隊の活躍などを評価し、自衛隊を違憲とする声は少なくなってきた。併せて北朝鮮のミサイル危機や、一部政治家によって煽られた竹島や尖閣諸島の問題を口実として、自衛隊を「国防軍」に格上げすべきであるという提起がなされる状況となった。

自衛隊の変質

 安倍晋三(第2次)自民党政権下においては、個別的自衛権だけではなく集団的自衛権も認められるという「解釈改憲」を進める動きが加速し、2014年7月に閣議決定された。さらに安倍内閣は、中国の軍備拡張と尖閣問題、北朝鮮の核開発など北東アジアの安全保障状況が大きく変化したとして、いわゆる「平和安全法制(安保法制)」の改訂の検討に入り、自衛隊法改正など10に上る法案を一括して国会に提出した。これらは「平和安全法案」「安全保障関連法案」などさまざまな呼び方がされたが、この法案に対しては、多くの憲法学者から憲法9条に反する立法であり、立憲主義に反するとの批判が強く起こった。また民主党、共産党、社民党など野党は、同法案によって日本が平和憲法に反して戦争する国になるとして反対、国会外でも同法を「戦争法」と規定して幅広い反対の声が起こった。2015年9月、衆参委員会で原案を強行採決、19日深夜の本会議で自民党・公明党などの賛成多数で可決成立させた。
自衛隊と集団的自衛権の行使容認  これによって自衛隊は「集団的自衛権を行使」し、日米安保条約にもとづき、アメリカ軍と共同作戦を行い、海外にも派兵される根拠をえたことになるが、その行使自体が専守防衛を定める日本国憲法9条に違反することとなり、その実行には大きな制約がかかっている。
 政府は武力行使の前提は国際協力の場合以外では「我が国の平和と独立並びに国及び国民の安全」が脅かされる存立危機事態に限られるとし、自衛隊が武力を行使する際の三条件(要約)として、
  • 我が国、又は我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険があること
  • 他に適当な手段がないこと
  • 必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと
を上げた。しかし、世界史的な反省に立てば、防衛という名のもとで戦争が行われてきた経緯を考えるとき、最も重要なことは軍を暴走させない広い意味のシビリアンコントロール、具体的には国会の決議を前提とする原則などが、抜け落ちているのではないかという疑義がある。 → 日本の集団的自衛権容認

自衛隊のこれから

 安倍内閣は、憲法改正を待たずに安保法制の改定によって自衛隊が集団的自衛権に基づいて同盟国と共に海外でも軍事行動を行うことを可能にするという戦後日本の基本路線を転換させた。これについては反対も根強く、違憲訴訟も起こされている。これからもその是非もさらに問われることになるだろう。また、北東アジアの安全保障環境には、2018年6月、米朝首脳会談が実現するなどの大きな変化が生じたが、その後の進展はみられていない。中国の軍事大国化、海洋進出などの不安材料もひろがっている。アメリカがどう変化するかも予測が難しくなっている。
 そのような中、戦後日本の総決算に挑むという安倍首相は安保法制を成立させ、歴代最長の任期を達成したが、2020年8月、再び体調を崩し、任期を約1年残して退任した。退任にあたって後継の菅内閣に対し、次の課題は日本の防衛のためには「敵基地攻撃能力」をもつことを検討することであると提唱した。
 このまま進むと、集団的自衛権を行使して敵基地を攻撃するといった事態がほんとうに起こるかもしれない。それはもはや憲法の下での専守防衛という本来の任務から大きくはずれ、まさに憲法の禁じる「軍隊」「戦力」そのものへと変質したことを意味する。世界史と日本史を学ぶことで歴史認識を深め、日本が誤った方向に向かわないよう、国民的な「抑止力」が必要になるかも知れない。
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