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日中平和友好条約

日中国交正常化後、正式な国交回復をめざした日中両国であったが、「覇権条項」をめぐって難航し、ようやく1978年、華国鋒・鄧小平政権と福田内閣との間で合意が成立し、平和友好条約が締結された。

 1972年の日中国交正常化以来、日本政府と中華人民共和国政府は、両国が交戦状態を終了させ正式な国交を樹立するための平和条約の交渉が続けた。しかし日中共同声明に盛り込まれた「覇権条項」を平和条約にも採り入れるかどうか、をめぐって交渉が難航した。当時中国は、1971年の林彪事件の直後であり、文化大革命はますます混迷の度を深めていた。毛沢東の権威が動揺する中、四人組周恩来鄧小平らの権力闘争が激化していた。また、外交では中ソ対立が解決の糸口をつかめず、緊張状態が続いていた。そのような行き詰まりをまず外交で打開しようとしたのが、72年のニクソン訪中受け入れと米中外交交渉の再開であった。

「覇権条項」をめぐり難航

 「覇権条項」とは、日中共同声明第7項にある「日中両国間の国交正常化は第三国に対するものではない。両国のいずれも、アジア・太平洋地域において覇権を求めるべきではなく、このような覇権を確立しようとする他のいかなる国あるいは集団による試みにも反対する」というものであった。同様の条項は同年のニクソン訪中の際に締結された米中共同声明にも含まれていた。
 つまり覇権条項とは「反覇権条項」であり、中国・日本も含め、あらゆる国の覇権に反対するという、至極当然の内容であったが、当時まだ中ソ対立が続いていたので中国にとっては「ソ連の覇権主義に反対する」ことが主眼であった。その条項が日中平和条約に盛り込まれることは、ソ連から見れば、日中がソ連の覇権に共同して当たるととれるので、ソ連は強く反発した。また、日本国内にもソ連との関係も重視して、覇権条項に反対する意見も強かった。

日中平和友好条約の締結

 条約交渉は覇権条項の扱いをめぐって難航したが中国の情勢が大きく変わり、一挙に交渉が進展した。それは1976年の毛沢東の死去、77年の鄧小平の復権、そして文化大革命の終焉であった。
 このような変化を受けてようやく1978年8月12日、中国の華国鋒政権と日本の福田赳夫内閣は「この条約は第三国(注、ここではつまりソ連のこと)との関係に関する各締結国の立場には影響を及ぼすものではない」という「第三国条項」を加えることで妥協が成立し、調印にこぎ着けた。10月には中国の鄧小平副首相が来日し、東京で批准書が交換され、正式に発足した。

参考 覇権条項のその後

 中ソ対立は1979年の中越戦争など、なおも尾を引いていたが、80年代に入るとソ連の政治・経済の行き詰まりが明確となり、1985年のゴルバチョフ政権の登場によって一気に解消に向かい、中ソ関係の正常化が図られたため、「覇権条項」は意味をなさなくなった。
 しかし、2000年代以降は、中国自体の東シナ海・南シナ海での海上進出が顕著になっている。これは中国自身が覇権主義を採っていると言わざるを得ない。日本は、日中共同声明と日中平和友好条約で両国共にどの国の覇権にも反対するという条項で合意していることをもう一度思い出し、中国の覇権主義に反対すると共に、軍事的反応ではなく外交によって対峙していくべきであろう。
 年表を見ていると、福田首相は1978年8月12日、北京で日中平和友好条約に調印した直後の8月15日には靖国神社を内閣総理大臣として参拝している。中国に媚を売ったとして批判されることを恐れての行動であったのだろうが、日本軍国主義の中国侵略を肯定するこの行動ははたして日中平和友好条約の精神と整合性がとれるのだろうか、日本の為政者の腹を中国に見透かされることになった。
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