ヒンドゥー至上主義/ヒンドゥー=ナショナリズム
20世紀にインドで盛んになったヒンドゥー教をインド統一の原理としようとする思想とその運動。しばしばイスラーム教徒との軋轢が生んできた。1915年結成のヒンドゥー・マハーサバー、1925年結成の民族奉仕団(RSS)などがその例。戦後の1980年には政党組織としてインド人民党(BJP)が生まれ、21世紀に政権をとるに至っている。
ヒンドゥー・ナショナリズムの先駆的人物としてティラクは、国民会議派の活動家であったが1890年代に反英闘争を一部のエリートのものでなく大衆的な独立運動に転化させた。その一つがそれまで家族単位で行われていたヒンドゥーの祭りである「ガナパティの祭り」を大衆的な規模に組織し、歌唱隊と楽器をつけて街を練り歩き、ヒンドゥーの至高性を喚起しながら民衆の意識を反英ナショナリズムに昇華させようとした。また、ティラクはヒンドゥー教の理念とともにヒンドゥー的シンボルである「牝牛」を保護する運動を指導するなど、大衆的なヒンドゥー・ナショナリズム運動を行ったが、それは同時にイスラーム教徒などとの対立を深めることにもなった。
20世紀のヒンドゥー・ナショナリズム運動
1905年のベンガル分割令に対する抗議からインドの反英闘争を展開したインド国民会議派は、ガンディーが主導して宗教対立を克服したインド人による国家統一を目指したが、結果的にインド・パキスタンの分離独立となってしまった。1920年代から第1次非暴力・不服従運動(第一次独立運動)を主導したガンディーは、ヒンドゥー教徒とムスリムの協力を優先する姿勢をくずさなかったが、それにはヒンドゥー教至上主義者、イスラーム分離主義者双方から根強い反発があった。独立後のインドでも、ネルー以降の国民会議派政権は、コミュナリズム(宗教対立)を克服するために政教分離(セキュラリズム)を強調し続けた。しかし、たびたびインド=パキスタン戦争が起こったこともあって、次第にヒンドゥー・ナショナリズムが復興し、21世紀にはヒンドゥー・ナショナリズムを基盤とするインド人民党が政権につくこととなった。ここにいたるまでの、20世紀以降のヒンドゥー・ナショナリズムの運動の経過は次のようなものであった。
ヒンドゥー・マハーサバー
インドの国民統合をめざす動きは、1915年の「ヒンドゥー・マハーサバー」結成によって確固たる潮流となった。ヒンドゥー・マハーサバー Hindi Mahasabha はヒンドゥー大協会ともいわれ、ムスリムなど非ヒンドゥー教徒に対抗してヒンドゥー・ナショナリズムによる国家建設をめざした。総裁サーヴァルカル(1883-1966)は、1920年代に国民会議派のガンディーが主導する第1次非暴力・不服従運動(サティヤーグラハ運動)が始まり、さらにヒラーファト運動でムスリムとの共同が実現し、独立運動として盛り上がると、当初の関係は良好であったが、その急進的な思想は次第にガンティーとの距離を拡げていった。1922年2月5日、ヒンドゥー教徒の農民が暴動を起こして警官を殺害するというチャウリ・チャウラ暴動事件が起きたことでガンディーが運動を終結させたことで、サーヴァルカルのガンディーに対する不信は決定的となった。サーヴァルカルとガンディー
サーヴァルカルがヒンドゥー教徒の武装を主張した動機は、ガンディーが指導した非暴力・不服従運動(第1次)の最中の1921年6月に、南インドのマラバールで起こったインドのイスラーム教徒(ムスリム)によるヒンドゥー教徒襲撃事件だった。ムスリムの農民(モープラーといわれた)はイギリス支配からの解放を叫んでヒラーファト運動に同調、非協力運動に協力していたが、指導者が逮捕されたことから次第に暴力的となり、怒りの矛先がヒンドゥー教徒の地主たちにむかっていった。モープラーたちにすればイギリス人もヒンドゥーの地主も自分たちを支配するものと見えた。モープラーの運動は宗教闘争へと変容し、ヒンドゥー教徒に対する大量虐殺にエスカレートしてしまい、イギリス政府の介入で沈静化したものの犠牲者は1万2千人に上った。この事件に対してガンディーは動かず、むしろムスリムの行為を称賛するような発言をした。それはイギリスからの独立を勝ち取るためにムスリムの協力を不可欠とするガンディーの立場から、イギリス人にインド人が殺されても「敵を愛せよ」の精神で非暴力を貫くことを説いていたのと同じ考えだったと思われるが、ヒンドゥー教徒のなからはそのようなガンディーの寛容の精神からくる無条件の許容に強く反発する人々も現れた。その一人がサーヴァルカルであった。ガンディー暗殺への伏線 サーヴァルカルはモープラー暴動に見られるムスリムの攻撃に対して、ガンディーは無力・無責任であると非難し、ヒンドゥー教徒は自らの身を守るため武装しなければならないと主張した。その思想に影響され、具体化したのが1925年に結成されたヘードゲーワールの民族奉仕団(RSS)だった。その過激な武装闘争はイギリス当局からも危険視されて活動は地下に潜ることとなったが、その地下テロ組織のメンバーのナトゥラーム・ゴードセーは、1948年1月30日、銃弾三発でガンディー暗殺を実行したのだった。そのためRSSはただちに非合法とされ、指導者を始め多数のメンバーが逮捕され、動きは一時封じられた。<間永次郞『ガンディーの真実――非暴力思想とは何か』2023 ちくま書房 p.201-208>
民族奉仕団 RSS
1925年、K.B.ヘードゲーワールが組織したヒンドゥー・ナショナリズムをとなえる団体。民族義勇団ともいわれる。略称がRSS。当初はその存在は小さなものであったが、反イスラーム、反国民会議派を標榜して現代のインド大衆に広く受け入れられるようになった。1930年代にはナチスの影響を受け、人種主義や全体主義的傾向も持っており、現代インドの政権政党であるインド人民党の支持基盤となっている。
民族奉仕団の結成と特徴
民族奉仕団(RSS Rashtriya Swayamsevak Sangh 民族義勇団と訳されることも多い)とは、1925年にK.B.ヘードゲーワールが設立した団体で、ヒンドゥー教徒を武装化してムスリムの攻撃から護ることが目的として結成された。ヘードゲーワールはバラモンに属する国民会議派の活動家であったが、1920年代初頭の第一次非暴力・不服従運動(非協力運動)が失敗に終わったのを経験し、ガンディーと対立するようになっていたヒンドゥー=マハーサバー(ヒンドゥー大協会)総裁サーヴァルカルが1923年に発表した『ヒンドゥートヴァ』(ヒンドゥーであること)の思想に影響を強く受けるようになった。サーヴァルカルは「ヒンドゥーとは、このインドの大地を自分の父祖の地であり同時に聖なる国である、と認めるものをさす」、つまりインドはヒンドゥーの国家であると主張し、ヒンドゥー至上主義(ヒンドゥー=ナショナリズム)に明確な意義づけを行っていた。K.B.ヘードゲーワールはサーヴァルカルの強い影響を受けたものの、当時のヒンドゥー=マハーサバーはヒンドゥー・ナショナリズムの中で最も有力ではあっても政党としての政治活動を中心としていたので、ガンディーの非暴力主義を批判し克服して独立を実現するには、青年の精神と身体を鍛錬すると同時に人格形成を基礎とする文化組織とすることを主眼とした。そこで彼は日常活動を重視し、シャーカー(支部)を全土につくり、集団生活による棒術の訓練なども取り入れた活動を開始した。1930年代にはヒトラーのアーリア人優越思想や全体主義的な行動様式を礼賛し、ナチスに倣った運動を目指していた。現在も、アーリア人のインドという民族主義を標榜し、非ヒンドゥー教徒を排除しようとしている。このような民族奉仕団の活動スタイルは、現代のインドにおいても熱心に続けられている。RSSは、ヒンドゥー・ナショナリズムの運動をエリートの観念的な運動ではなく、草の根の運動として定着させることに成功したといえる。<中島岳志『ヒンドゥー・ナショナリズム』2002 中公新書ラクレ p.165- は、2000年代初頭における民族奉仕団の活動を詳しくレポートした好著である。>
インド統合の三つの潮流
1920年代からインド独立運動を牽引したガンディーの理念は、ヒンドゥー教の『バガヴァッド=ギーター』に述べられている不殺生(アヒンサー)の精神をべースにした「普遍的ヒンドゥー主義」といえるものであり、インド独立運動の主な潮流となった。それにたいしてヘードゲーワールの説く「ヒンドゥー・ナショナリズム」の潮流と、ネルーらのめざした「近代主義的ナショナリズム」の潮流は傍流であり、1930年代にはガンディーがそのカリスマ性によってインドを統合するシンボルとして機能した。ヘートゲーワールもネルーもまったくちがった立ち位置ではあるがこの段階ではガンディーに協力した。しかし、そのガンディーをしてもヒンドゥーとムスリムの軋轢を除去することはできず、最終的にこの対立を構造化した形でのインド・パキスタンの分離独立という結果を生み出し古都になった。<中島岳志『上掲書』p.230-231>ガンディー暗殺と民族奉仕団
1948年1月30日、ナトゥラーム・ゴードセーという青年によってガンディーは暗殺された。ゴードセーはバラモンの出で、熱心なヒンドゥー教徒であり、民族奉仕団(RSS)のメンバーであった。RSSの元メンバーで、当時は地価テロ組織の一員だった、あるいは関連団体の秘密会員だったとの説明もある)であった。彼自身は殺害の動機をガンディーの「ムスリムに対する頑強な宥和政策」を挙げている。<間永次郞『ガンディーの真実――非暴力思想とは何か』2023 ちくま書房 p.206> RSSメンバーによるガンディー暗殺はインドにおける宗教対立(コミュナリズム)根の深さを示す事件であった。第2代総裁のゴールワルカルをはじめとしたメンバーの約2万人が逮捕され、RSSの組織は非合法となった。VHPとBJP
しかし1949年7月、早くも非合法を解かれたRSSは、運動の強靱化を図り、全国的な組織化とともにさまざまな活動形態をとる団体をつくっていった。その一つが1951年に結成された政治団体であるジャンサングであるが、その後のインド国民会議派インディラ=ガンディー政権のもとで再び弾圧された。またRSSから派生した団体の中で、最も急進的なのが世界ヒンドゥー協会(VHP)で、この団体はムガル初代皇帝バーブルが建設したバーブリー=モスクを破壊し、ヒンドゥー教のラーム寺院を建設する運動を推し進めた。1980年、ジャンサングはインド人民党(BPJ)と改称し、RSSを基盤とした本格的な政党活動を開始した。BJPはRSSから派生した政治団体であるが、政党として政権をとる上ではヒンドゥー=ナショナリズムを前面に出すことをひかえるようになったため、VHPなど急進派からは不満も出るようになった。インド人民党の台頭
インドは特に西部に多くのイスラーム教徒が存在しており、国内での宗教対立が次第に表面化していった。特に1980年代からヒンドゥー至上主義、ナショナリズムを掲げるRSSとVHPの活動が活発となり、ムスリムとの衝突事件をくり返すようになった。そのような情勢を背景に、インド人民党(BJP)が台頭、ムスリムのモスク襲撃事件などが頻発する中で、1992年12月6日には、ヒンドゥー教徒がイスラーム教のモスクを襲撃するアヨーディヤ事件が起こった。この襲撃事件を主導したのはRSSの系列団体の中でも最も過激なVHPのグループだった。このようなヒンドゥー・ナショナリズムの活発な動きは、イスラーム世界におけるイスラーム原理主義に刺激されながら、インド社会で一定の広がりをみせ、インドにおいても宗教的原理主義が、国際政治に強い影響を及ぼすようになっており、不安定要因となっていった。
インド人民党は、国民会議派の長期政権が汚職や強権的な姿勢をとって国民の人気を落としたことによって、1996年に政権を獲得、その後2004年には選挙に敗れたが、2014年に選挙で再び第一党となった。選挙での勝利という国民の支持を背景に、モディ首相のもとでヒンドゥー至上主義による国家統合を明確に進めている。その動きは、ヒンドゥー教徒が聖なるものと崇拝している牝牛の保護の徹底などにも現れ、さまざまな面でヒンドゥー教との衝突が起こっている。
出題 2004年 早大政経
現代インドのヒンドゥー教教徒の中で生まれてきた、ヒンドゥー至上主義(ヒンドゥー=ナショナリズム、ヒンドゥー原理主義とも言う)を扱った大学入試の設問があるのでその文章を引用する。第1問 次の文章を読み、空欄に入る語句をあげよ。(一部変更)
1992年12月6日、北インドのアヨーディアという町にあるモスクがヒンドゥー・ナショナリスト達によって破壊されるという事件が起きると、イスラーム教国のパキスタンに波及し、イスラム教徒とヒンドゥー教徒が衝突し、千名以上の死傷者が出た。問題の発端となったアヨーディアは、古代叙事詩『ラーマーヤナ』のラーマ王子が生誕したコーサラ国の首都とされている。伝承によれば、その生誕地とされる場所に1528年、ムガール帝国の初代皇帝( 1 )がモスクを建立したという。そのモスクは450年以上平和裏に存続してきたが、近年、ヒンドゥー・ナショナリスト達が、そのモスクを破壊して、その地にラーマ寺院を建立して、アヨーディアをヒンドゥーのもとに奪還すべきだというキャンペーンをはじめた。その一環として、モスクが破壊されたのである。ヒンドゥー・ナショナリズムの動きについて、インド近現代史を振り返りながら考察しよう。
1857-59年のシパーヒー(セポイ)の反乱を鎮圧したイギリスは、インドの直接統治を開始する。1877年、ヴィクトリア女王はインド皇帝を兼任することことを宣言し、インド植民地を「インド帝国」の名称で呼んだ。20世紀に入って、インドの民族的自覚が高まっていった。1885年に結成された政治結社( 2 )を核として、独立運動が盛んになっていく。その中心人物がガンディーであった。非暴力・不服従の無抵抗運動を主張しながら独立運動を進めていき、民衆の圧倒的支持を集めた。また、ガンディーは自治獲得を意味する( 3 )、国産品愛用を意味する( 4 )を主張した。そして、寛容の心を民族精神の核とするインド文明によって、イスラーム教徒とヒンドゥー教徒が平和裏に共存できることを確信していた。しかし現実には、1947年、インドとパキスタンが分裂した形で独立を果たすことになった。1948年1月、ガンディーは反イスラムのヒンドゥー至上主義者によって暗殺される。その後を継いだ( 5 )は、独立国家の初代首相としてインドを導いて、1955年のバンドン会議などをリードし、非同盟諸国のリーダーの役割を演じた。しかし、( 6 )の領有権をめぐり、パキスタンとの戦争を避けることは出来なかった。( 5 )の後継者となった娘のインディラ=ガンディーは、貧困追放をスローガンとして親ソ的な社会主義路線を推進し、反政府運動を厳しく弾圧した。そのため、1984年、( 7 )教徒過激派に暗殺された。インディラの長男( 8 )がその後を継ぐが、彼も1991年に南インドのドラヴィダ系民族( 9 )人の独立をめざす過激派によって暗殺された。
1991年、冷戦の終焉の影響で、インドも社会主義政策を放棄して、経済自由化政策を採用する。バンガロールを中心に情報産業が隆盛し、インド経済は活発化してくる。だが国内では経済的自由化に伴い、貧富の格差も急激に拡大し、排他的なナショナリズムが台頭してくる。それが、ヒンドゥー・ナショナリズムである。独立以来40年以上権力の座にあった( 2 )の政権は、汚職や腐敗にまみれ、民衆の支持を失っていった。1998年、ヒンドゥー・ナショナリズムを標榜するBJPと略称される( 10 )が政権を奪取した。特に首相のヴァージーパーイーは、一方ではハイテク産業を奨励し、対外開放政策を掲げているが、他方では世界ヒンドゥー協会のような過激なヒンドゥー・ナショナリズム団体を支持基盤にしている。果たして、インドでイスラム教徒とヒンドゥー教徒が平和裏に共存していくのか、それとも双方が激しく対立するのか。10億以上の人口を擁するインドの今後の動向には、十分な注意を払う必要がある。
解答
(1)バーブル (2)国民会議派 (3)スワラージ (4)スワデーシー (5)ネルー (6)カシミール (7)シク (8)ラジブ=ガンディー (9)タミル (10)インド人民党