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ヒンドゥー至上主義/ヒンドゥー=ナショナリズム

現代インドで盛んなヒンドゥー教原理主義とも言われる思想。しばしばイスラーム教徒との軋轢が生じている。

 近代以前のインドは、固有の信仰であるヒンドゥー教の他に、外来宗教であるイスラームがインドに侵入して以来、インドのイスラーム教徒が存在した。ムガル帝国時代にはイスラーム教がインドを支配したが、在地においてはヒンドゥー教徒との共存が続けていた。しかし、両者は次第にその違いを意識するようになり、長い歴史のなかでコミュナリズムといわれる宗教対立も起こるようになった。
 特に、インドがイギリスから独立する過程で、ガンディーらの努力にもかかわらず、宗教的な差異によって分離独立することとなり、ヒンドゥー教徒を主体としたインドとイスラーム教徒を主体とするパキスタンが成立、両者は国境問題も絡み、厳しく対立することとなった。

インド人民党の台頭

 しかも、インドは特に西部に多くのイスラーム教徒が存在しており、国内での宗教対立が次第に表面化していった。特に1980年代からヒンドゥー至上主義、ナショナリズムを掲げる勢力が活動を活発にし、ムスリムとの衝突事件を起こすようになった。そのような情勢を背景に、それらの勢力の中からインド人民党(BJP)が台頭、ムスリムのモスク襲撃事件などが頻発する中で、1992年には、ヒンドゥー教徒がイスラーム教のモスクを襲撃するアヨーディヤ事件起こっている。
 これはイスラーム世界におけるイスラーム原理主義に刺激されながら、インド社会で一定の広がりをみせ、またインド人民党は政権を握るまでに至っている。現在では宗教的原理主義が、国際政治に強い影響を及ぼすようになっており、インドにおいても不安定要因となっている。
 インド人民党は1996年に国民会議派の長期政権に代わってはじめて政権を獲得、その後2004年には選挙に敗れたが、2014年に選挙で再び第一党となり、モディ首相のもとでヒンドゥー至上主義による国家統合を明確に進めている。その動きは、ヒンドゥー教徒が聖なるものと崇拝しているの保護の徹底などにも現れ、さまざまな面でヒンドゥー教との衝突が起こっている。
 現代インドヒンドゥー教教徒の中で生まれてきた、ヒンドゥー至上主義(ヒンドゥー=ナショナリズム、ヒンドゥー原理主義とも言う)を扱った大学入試の設問があるのでその文章を引用する。

出題 2004年 早大政経

 第1問 次の文章を読み、空欄に入る語句をあげよ。(一部変更)
 1992年12月6日、北インドのアヨーディアという町にあるモスクがヒンドゥー・ナショナリスト達によって破壊されるという事件が起きると、イスラーム教国のパキスタンに波及し、イスラム教徒とヒンドゥー教徒が衝突し、千名以上の死傷者が出た。問題の発端となったアヨーディアは、古代叙事詩『ラーマーヤナ』のラーマ王子が生誕したコーサラ国の首都とされている。伝承によれば、その生誕地とされる場所に1528年、ムガール帝国の初代皇帝( 1 )がモスクを建立したという。そのモスクは450年以上平和裏に存続してきたが、近年、ヒンドゥー・ナショナリスト達が、そのモスクを破壊して、その地にラーマ寺院を建立して、アヨーディアをヒンドゥーのもとに奪還すべきだというキャンペーンをはじめた。その一環として、モスクが破壊されたのである。ヒンドゥー・ナショナリズムの動きについて、インド近現代史を振り返りながら考察しよう。
 1857-59年のシパーヒー(セポイ)の反乱を鎮圧したイギリスは、インドの直接統治を開始する。1877年、ヴィクトリア女王はインド皇帝を兼任することことを宣言し、インド植民地を「インド帝国」の名称で呼んだ。20世紀に入って、インドの民族的自覚が高まっていった。1885年に結成された政治結社( 2 )を核として、独立運動が盛んになっていく。その中心人物がガンディーであった。非暴力・不服従の無抵抗運動を主張しながら独立運動を進めていき、民衆の圧倒的支持を集めた。また、ガンディーは自治獲得を意味する( 3 )、国産品愛用を意味する( 4 )を主張した。そして、寛容の心を民族精神の核とするインド文明によって、イスラーム教徒とヒンドゥー教徒が平和裏に共存できることを確信していた。しかし現実には、1947年、インドとパキスタンが分裂した形で独立を果たすことになった。1948年1月、ガンディーは反イスラムのヒンドゥー至上主義者によって暗殺される。その後を継いだ( 5 )は、独立国家の初代首相としてインドを導いて、1955年のバンドン会議などをリードし、非同盟諸国のリーダーの役割を演じた。しかし、( 6 )の領有権をめぐり、パキスタンとの戦争を避けることは出来なかった。( 5 )の後継者となった娘のインディラ=ガンディーは、貧困追放をスローガンとして親ソ的な社会主義路線を推進し、反政府運動を厳しく弾圧した。そのため、1984年、( 7 )教徒過激派に暗殺された。インディラの長男( 8 )がその後を継ぐが、彼も1991年に南インドのドラヴィダ系民族( 9 )人の独立をめざす過激派によって暗殺された。
 1991年、冷戦の終焉の影響で、インドも社会主義政策を放棄して、経済自由化政策を採用する。バンガロールを中心に情報産業が隆盛し、インド経済は活発化してくる。だが国内では経済的自由化に伴い、貧富の格差も急激に拡大し、排他的なナショナリズムが台頭してくる。それが、ヒンドゥー・ナショナリズムである。独立以来40年以上権力の座にあった( 2 )の政権は、汚職や腐敗にまみれ、民衆の支持を失っていった。1998年、ヒンドゥー・ナショナリズムを標榜するBJPと略称される( 10 )が政権を奪取した。特に首相のヴァージーパーイーは、一方ではハイテク産業を奨励し、対外開放政策を掲げているが、他方では世界ヒンドゥー協会のような過激なヒンドゥー・ナショナリズム団体を支持基盤にしている。果たして、インドでイスラム教徒とヒンドゥー教徒が平和裏に共存していくのか、それとも双方が激しく対立するのか。10億以上の人口を擁するインドの今後の動向には、十分な注意を払う必要がある。
 解答 
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