カルカッタ/コルカタ
ガンジス下流の大都市。1690年、イギリス東インド会社の商館が置かれ、インド(ベンガル地方)支配の拠点だった。1877年、インド帝国の首都とされ、1911年まで続いた後、首都はデリーに移る。インド独立後は西ベンガル州の州都。現在は本来のコルカタに呼称を戻している。
カルカッタ(旧コルカタ) Google Map
イギリスと対抗しようとしたフランスは、同年、カルカッタの北方にシャンデルナゴル(現チャンダナガー)を建設した。
ベンガル管区の拠点
ベンガル太守と要塞建設の交渉を重ね、ようやく1696~1702年にウィリアム要塞を建設した。その後カルカッタはベンガル地方の管区都市として発展し、イギリスのインド貿易、さらに植民地支配の中心地の一つとして重要な都市となった。イギリスの植民都市としては、南インド東海岸のマドラス(現在のチェンナイ)・西インド海岸のボンベイ(ムンバイ)と並ぶ三管区都市の一つとなった。 → インド(6)ヨーロッパ勢力の進出ベンガル総督の設置
1773年にはベンガル総督がこの地に置かれ、植民地としてのインド統治の重要な機関となった。ベンガル地方は商工業、機械工業、金融業も興り、カルカッタは特にベンガル地方のジュート生産の集積地として繁栄した。同時にベンガルのインド人のなかに民族としての自覚が生まれ、ベンガルとその中心都市カルカッタはイギリスの植民地支配に対するインドの民族運動の中心にもなっていった。インド帝国の首都となる
インド大反乱を1857年に鎮圧したイギリスは、翌1858年には東インド会社を解散させ、インド総督を通じての直接統治に切り換え、その完成形として1877年にヴィクトリア女王が皇帝を兼ねるインド帝国を樹立した。その時カルカッタは首都とされ、イギリス植民地経営の中心都市となった。国民会議派のカルカッタ大会
19世紀末になると、イギリス帝国主義によるインド植民地支配が強化されたことに対し、インドの反英闘争が盛んになった。イギリスはその動きを抑えるためにカルカッタを含むベンガル地方をヒンドゥー教徒とイスラーム教徒の地域に分割して統治しようとして、1905年にベンガル分割令を指定した。それに対して、1906年には国民会議派がこのカルカッタで大会を開催し、カルカッタ大会四綱領を決議し、明確な自治の獲得をめざす運動が開始された。首都のデリー移転
反英闘争の高揚を恐れたイギリスは、運動を懐柔するため1911年12月に国王ジョージ5世がインドを訪問し、ベンガル分割令を撤回した。同時にインド帝国の首都をカルカッタからかつてのムガル帝国の都デリーに隣接して建設した新都ニューデリーに遷都した。カルカッタはインド統治の政治的中心地という地位は失ったが、周辺の高い生産力を背景に、その経済的な中心都市としての繁栄は続いた。インド独立後のカルカッタ
1947年のインド独立は、ガンディーが理想とした全インドの統一を守った上での独立にはならなかった。インド西部のパンジャーブ地方とともにイスラーム教徒が多かったベンガル地方は、インドには加わらず、パキスタンとして独立することとなった。そしてベンガル地方は結局は分割されて、東ベンガルはパキスタンに加わり、西ベンガルのカルカッタを含む地域はインドに属することとなった。このとき異なる宗教の人々がそれぞれに別れて移動し、その過程で悲惨な衝突が起こり多くの人命が失われた。カルカッタにも多くのヒンドゥー教徒が難民として流入した。こうして生まれたパキスタンであったが、飛び地となった東西の意思の疎通は妨げられ、1971年4月、東パキスタンは分離独立を宣言してバングラデシュを建国、それを支援したインドとパキスタンの間で第3次インド=パキスタン戦争が勃発した。 カルカッタからコルカタへ この動乱で結局、東ベンガルはバングラデシュとして独立し(首都はダッカ)、西ベンガルはインドの一つの州として残り、カルカッタは州都となって現在に及んでいる。カルカッタは長くイギリス植民地支配の拠点として続いたが、現在はインドの西ベンガル州の中心都市となっている。独立後、植民地時代の英語表記の都市名を、本来のインドの言い方に戻す動きが続き、カルカッタ Calcutta は現在はコルカタ Kolkata と言われている。