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海洋自由論

1609年に刊行されたオランダのグロティウスの主著。スペイン・ポルトガルが海洋を二分して支配することを論駁し、自然法の立場から、海洋航行の自由・交易の自由を論じた。

 1568年から続くスペインからのオランダ独立戦争は、1609年に「十二年間休戦条約」が成立し、ネーデルラント連邦共和国(オランダ)の事実上の独立が達成された。オランダはすでに1602年オランダ東インド会社を設立しており、同時に海上交易で覇を競うスペイン(ポルトガルを併合)、イギリス、フランスなどの諸国との間で、自国の経済的利益を守らなければならない状況が強まった。そのようななか、同じ1609年にオランダ東インド会社はすでに法学者として知られていたグロティウスに、海洋航行・交易での権利を擁護する論文の公表を依頼した。それに応えて書かれたのが、『海洋自由論』(自由海論)であった。グロティウスは後にオランダ政府と対立して投獄され、脱獄後にフランスに亡命、1625年に著した『戦争と平和の法』とともに、後の国際法に影響を与え、「近代自然法・国際法の父」とも評価されている。

『海洋自由論』の主張

 グロティウスは海洋航行の自由と交易の自由について、すでに1606年までに『捕獲法論』を完成させており、綿密な弁論を展開していた(しかし同書は理由はわかっていないが公刊されることはなかった)ので、『海洋自由論』の執筆では同書をベースに、さらに新たな論拠を加えて執筆した。
 グロティウスの『海洋自由論』は副題を「東インドとの交易に参加するオランダ人の権利についての論攷」としているとおり、スペイン(およびポルトガル人)の主張する東インド貿易と航路の独占に対して論駁し、オランダの持つアジアとの航行・交易の自由を弁護するという明確な目的をもって刊行された。
 グロティウスは序文において「オランダとスペインの間で現在論争となっている問題は、広大で無際限の大洋を一国の領域とすることができるか、ある国民が他の国民同士の交易や交通を禁止できるか、自分の物でない物を他の人に与えることができるか、他人の物を発見(先占)という根拠で取得できるか、そして明白な不正が長い間慣習として行われてきたことによりなんらかの権利ととなることができるか、ということであるとされている。これらの問題が従来の学説では解決できない場合は、全人類からなる普遍的人類社会に共通の法、つまり万民法(ユース・ゲンティウム=後に国際法と言われるようになる)に依拠しなければならない。その万民法とは、自明で不変の第一の万民法(自然法)とみなされる。」と述べた。
ポルトガル人の独占を否定 『海洋自由論』本文においては、航行の自由と交易の自由にわけて、ポルトガル人の独占権を否定した。ポルトガル人の主張する独占権は、他に先駆けて「先占」したこと、1493年に教皇アレクサンドル6世の教皇子午線によって贈与されたものであること、すでに時効が成立していることの三点を論拠としていた。まず海洋は空気と同じく人類共有であり「先占」することはできないとし(ただし内海、湾、海峡、海岸は含まれない)と論じた。さらに教皇の贈与については教皇は全世界の世俗的支配者ではないから、海洋を贈与する権利はないと断じた。教皇の贈与権を否定したこの書は翌年、ローマ教皇庁によって禁書とされた。第三の論拠である時効・慣習については、君主間の取り決めには時効は適用されないこと、ポルトガルの東アジアへの進出はせいぜい100年足らずであることから慣習とはいえない、と論じた。結論として、ポルトガル人の主張する、先占(および発見)、教皇の贈与、時効・慣習という根拠はいずれも妥当でなく、結局、第一の万民法上、ポルトガル人は東インドへいたる大洋を航行する権利を独占することは出来ないとした。<柳原正治『グロティウス』2000 清水書院 p.106-112>
(引用)資料 『海洋自由論』の一部
  • 第1章 われわれの目的は、オランダ人すなわちネーデルランデン連邦の臣民が、自由に、今までどおり東インドへと航行し、その地の住民と交易を行うことができるということを、簡潔明瞭に論証することである。(その際)われわれは、万民法という確実かつ明白で不変の規則を論拠とするであろう。・・・
  • 第5章 空気は二つの理由で万人共有のものである。第一に、それは占拠したり所有したりことが許されないからであり、他方、それは人々に共通に奉仕すべきものだからである。同じ理由で、海洋もまた万人共有のものである。・・・海洋は取引の対象とはなりえない。つまりなんぴとによっても所有されえないものの一つである。したがって、海洋のいかなる部分も、ある特定の民族の所有物とはみなしえないのである。・・・
  • 第13章 それゆえ、法と道徳が、他のなんぴとととも同様にわれわれにとっても東インド貿易は自由であるということを要求するものである以上、次なる問題は、われわれがスペイン人と講和しようと、休戦条約を結ぼうと、また戦争をさらに続けようと、われわれが当然もっているこの自由を、すべての手段を用いて維持しなければならないということである。・・・
  •  <歴史学研究会編『世界史史料』5 p.305>

『海洋自由論』以前の海洋観

 広大な外洋に対してある国が領有権を主張することが出来るか、と言う問題は15世紀末に始まる大航海時代になって問題となり始めた。先陣を切って海洋に進出したスペインとポルトガルは対立の調停をローマ教皇に持ち込み、1493年に教皇アレクサンドル6世により教皇子午線で勢力圏を分割した。翌年、ポルトガルの主張によって修正され、トルデシリャス条約が締結された。これは新たに発見される陸地に対する支配権を対象としており、海洋の領有については明記されていなかったが、両国は大洋の領有権も分割によって教皇から贈与されたと解釈した。
 それに対して16世紀に入るとイギリス、フランス、ロシア、さらにオランダも加わり、スペインとポルトガルによる海洋分割支配に異議を唱え、「海はすべての者に共通である」という主張がなされるようになった。1580年代に海洋進出を開始したエリザベス1世時代のイギリスも、海洋の自由航行を主張し、ドレークの海賊行為も認めていた。17世紀に入り近接するオランダの海洋進出が顕著になると、イギリスのジェームズ1世はイギリスの沿岸や近海での外国船の自由を制限する布告を出し、「イギリスの海」という概念を明らかにするようになった。さらにこの主張は新大陸などのイギリス領にも適用され、海洋の支配権をめぐる対立は次第に激しくなっていった。世界交易の中継地として経済的繁栄を続けているオランダにとって、この問題は国家の存亡に関わる重大事であり、海洋航行と交易の自由を理論化することは国家的な強い期待を寄せられていた。

イギリスとの確執

 グロティウスの海洋自由論に対してただちに周辺国からの反論がなされた。特にイギリスのセルデンは、ジェームズ1世、次のチャールズ1世の意向を受け、『閉鎖海論』を著しグロティウス批判を展開した。セルデンは、海は陸地と同様に私的所有権の対象となるという一般論を展開し、エリザベス1世時代以来の歴史的な「イギリスの海」に対する保護・統治・制海権、航行・漁業の許可、捕獲権などを有することを主張した。これ以降、海洋自由論と海洋閉鎖論は、海洋の領有をめぐって20世紀まで続く国際的な論争となっていく。
東インドでの衝突 イギリスのジェームズ1世は、『海洋自由論』が刊行された直後の1609年5月に、イギリス沿岸での漁業の制限を布告したが、その主張はさらには大洋での領海の主張に及び、各地でのオランダとの紛争がもちあがった。すでにオランダは東インド海域でポルトガル人の交易拠点を次々と奪い、現地人に契約を強制し、香辛料貿易の独占を進めていた。イギリスはオランダが香辛料貿易を独占しているのは、グロティウスの『海洋自由論』に矛盾しているとして非難した。それに対するグロティウスの答えは、海洋の航行・交易は自由であるが、同時に現地人との契約は有効であり、オランダの独占権は契約によるのもであるから有効であると主張した。
 両国の競争は実力での衝突となり、1623年アンボイナ事件として表面化し、結局オランダ側が暴力的にイギリスを排除し、イギリスは東インドでの主導権を失うこととなり、後の殖民地オランダ領東インド建設へと向かっていく。
英蘭戦争へ オランダとイギリスの海上貿易の覇権をめぐる抗争はイギリスがピューリタン革命後の1651年に航海法を制定したことから、17世紀後半に数次に亘る英蘭戦争が繰り返されることとなり、やがてイギリスの海洋帝国としての覇権の確立へと向かう。

主権国家成立段階の海洋法

 グロティウスの海洋自由論は、オランダの立場を代弁するものであったが、イギリスとの抗争を通じて次第に実態には合わないものとなっていった。1648年に三十年戦争が終わり、ヨーロッパ各国が主権国家の形成へと向かい、18世紀には市民革命と産業革命を経て領土・領海の概念が一般化すると、海洋自由論は大きく後退し、大きな制約を受けることになった。グロティウスも沿岸部、海峡、湾などの領有は否定していなかったが、19世紀には沿岸のほぼ三海里(マイル)を領海とし、その外の海域を公海とする考えが一般化した。
領海12海里と排他的経済水域の確定へ ところが第二次世界大戦後に欧米主導の国際社会の枠組みが、アジア・アフリカ諸国の独立などによって大きく変化したことにより、1960年代以降、沿岸国権限を拡大しようとする動きが顕著となった。それらの動きが集約される形で、1994年に発効した国連海洋法条約によって、領海は12海里に拡張され、さらにその外側の200海里までを排他的経済水域(EEZ)として設定することが認められた。これによって公海部分は大幅に減少し、世界の海は領海、排他的経済水域、公海という三つの部分に分割され、グロティウスが一貫して主張した大洋の自由は、これにより大きく損なわれることになった。<柳原正治『前掲書』 p.124-125>
 このようにグロティウスの海洋自由論は現在では実態にそぐわなくなっているが、外洋を広く公海として国際的に領有化を認めない合意が生きているところに、17世紀にその理念を提唱したグロティウスの大きな貢献を認めることが出来る。