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パナマ会議

1826年、シモン=ボリバルの提唱で開催されたラテンアメリカ諸国の会議。集団防衛構想は実現できなかったが、パン=アメリカ主義はアメリカ合衆国が主導権をにぎり、1889年のパン=アメリカ会議に継承された。

 1826年6月22日から7月、シモン=ボリバルが呼びかけて、パナマで開催された、ラテンアメリカの独立諸国の会議。ボリバルはこの会議で、ヨーロッパからの干渉に対してラテンアメリカ諸国の連帯と結束を呼びかけた。この時は具体的な成果はなかったが、彼の理念はパン=アメリカ主義として継承され、後の1889年、ワシントンで開催されたパン=アメリカ会議の源流となった。 → 

ウィーン体制とモンロー宣言

 シモン=ボリバルは1810年代にカラカスで独立運動に立ち上がってから、大コロンビア、ペルー、ボリビアの独立を実現していったが、スペインの植民地支配との戦いは、新しい独立国の共同防衛が必要になると常々考えていた。1815年からヨーロッパでウィーン体制が成立し、自由主義や民族主義の動きが抑えられる時代になると、ラテンアメリカではスペインの支配が戻りかねない状況となってきた。アメリカ合衆国の1823年モンロー教書で表明された孤立主義は、そのようなヨーロッパの勢力が再び新大陸に及ぶことを阻止しする意図とともに、アメリカ大陸での合衆国の主導権をねらったものであった。そのような状況の下で、ボリバルはスペインの植民地支配の再現を阻止するための共同防衛体制作りを構想した。

ボリバル、ラテンアメリカの連帯を目指す

 パナマで開催された会議にはボリバルの要請に従い、大コロンビアメキシコ、中米連邦(1823年、メキシコから分離。コスタリカ、ニカラグア、ホンジェラス、エルサルバトル、グアテマラに分裂する前の連合国家)、ペルーの4ヶ国が参加した。その他に、イギリスとオランダが非公式に代表を送った。アメリカ合衆国も遅れて招待されたが、代表が途中で死亡する事故のため、出席できなかった。

条約批准されず。

 パナマ会議はボリバルの提唱した、同盟国が外国から攻撃された場合には他の同盟国はただちに援助すること、戦争を回避するために紛争の調停役を果たすこと、相互に市民権を認め合うこと、奴隷貿易を廃止することなどに合意し、条約を締結した。しかし、大コロンビアは批准を済ませたものの、他の三国では批准がされず、同条約は発効することがなかった。ボリバルが目指したパン=アメリカ主義の芽はこうして失敗に終わり、ラテンアメリカ地域ではボリバルが懸念したように長い混乱期を経験し、外国の侵略を受けることになった。<国本伊代『改訂新版概説ラテンアメリカ史』1992 新評論 p.159>

その後のラテンアメリカ諸国の苦難

 その後、ラテンアメリカ諸国に進出したのは、スペインなどヨーロッパ諸国ではなく、他ならないアメリカ合衆国であった。ボリバルもモンロー教書にアメリカの領土的・経済的野心を見抜いていたので、パナマ会議にも当初はアメリカを招待しなかった。ボリバルは1830年に死去したが、1830年代に入るとアメリカは当時メキシコ領であったテキサスへの開拓民の移住を進め、1836年には併合を実行、それに対してメキシコがアメリカに宣戦し、1846年アメリカ=メキシコ戦争となる。
 19世紀の帝国主義の段階に入るとアメリカは、共和党マッキンリーからセオドア=ローズヴェルト大統領と続く中で、特に後者による棍棒外交と言われる強引なカリブ海政策としてより積極的な侵出を図るようになり、アメリカ=スペイン戦争によるキューバの保護国化、パナマ運河獲得などを実現していった。20世紀前半の民主党ウィルソン大統領の宣教師外交、フランクリン=ローズヴェルト大統領の善隣外交へと転換しその間、パン=アメリカ会議はアメリカの中南米外交政策にとって重要な舞台となった。