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イギリスのEC加盟

イギリスのヨーロッパ共同体(EC)加盟はフランスなどの反対で拒否されていたが、1973年、オイルショック後の世界経済が変化したことによって加盟が実現した。しかし、統一通貨ユーロの導入はしなかった。

 第二次世界大戦の戦禍からの復興を模索したヨーロッパ諸国の中で、フランスと西ドイツはシューマン=プランに基づいて石炭資源の共同管理から提携を強め、1957年にベネルクス三国にイタリアを加えてヨーロッパ経済共同体(EEC)を発足させた。それは相互に関税をさげて経済提起な協力関係を築き、アメリカ経済から自立することを目指したものであった。 → ヨーロッパの統合

EC加盟のジレンマ

 しかしイギリスは戦前の広大な植民地支配をイギリス連邦として強い関係として維持していた頃から資源確保には自信があり、また貿易相手は安全保障上の結びつきもあって、アメリカ合衆国をその主要な相手と想定してヨーロッパとの経済協力には消極的であったため、EECには加盟せずという姿勢をとった。  1960年には、EECに対抗してEFTAを結成し、EECに加盟していない北欧諸国などとの貿易での協力態勢を築くなど、独自路線を歩んだ。しかし、戦後しばらく経過する中で、EEC加盟の西ドイツ、フランスが工業力を強め、経済成長を続けたのに対し、イギリスは産業構造の近代化、技術革新に後れを取り、さらにEFTA加盟国が工業力でEECに対抗できないことが明確になってきた。そのためイギリスは輸入超過に悩み、経済不振に陥った。そこでマクミラン内閣(保守党)は方針を転換して1963年にEEC加盟を申請したが、フランスのド=ゴールはイギリスの背後にあるアメリカ経済の影響力が強まることなどからそれに反対し、イギリス加盟は失敗した。

加盟実現の背景

 次いで第1次ウィルソン内閣(労働党)は1967年にポンドを切り下げて貿易収支の改善を図ったがなお事態は改善されなかった。1971年のドル=ショックでアメリカ経済の後退がはっきりしたことを受け、1973年1月1日、ようやくイギリスのヒース内閣(保守党)はヨーロッパ共同体(EC)加盟に踏み切った。ところが同年11月にはオイル=ショックが起こり、非常事態宣言をだす事態となった。
 その後イギリス経済は欧州経済統合の拡大に協力を迫られたことなどから、イギリス加盟後のECは拡大ECと言われるようになった。1975年に第2次ウィルソン内閣(労働党)はEC残留かどうかを国民投票に問い、残留が承認された。

統一通貨ユーロは導入せず

 その後のサッチャー政権(保守党)はEC統合の強化には消極的で、通貨統合には反対し、イギリスは統一通貨ユーロを導入せず、通貨はポンドをそのまま使用してきた。
 2016年にイギリスは国民投票でEU離脱を選択し、ブレグジットが決まった。2020年の一年間の移行期間を経て、2021年1月1日からは完全離脱となった。イギリスはかつての大英帝国時代の繁栄が忘れられず、「主権を取り戻せ!」という声に押されて、EU離脱の道を選択した。歴史を学ぶ我々としては、ヨーロッパ統合にる前においても、また加わる際においても対立と妥協があり、ドラマがあったことを知っておく必要がある。 → イギリスのEU離脱
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