ヨルダン川西岸
ヨルダン川の西岸一帯はアラブ系の住民が居住しており、第一次世界大戦後のイギリスの委任統治を経て、1947年の国連分割案ではパレスチナの国土とされた。第1次中東戦争でヨルダンが占領した後、1967年の第3次中東戦争でイスラエルが侵攻して占領、ユダヤ人が入植しアラブ人との混在となる。オスロ合意によって1995年にガザ地区と共にパレスチナ自治政府が統治することとなったが、現在もユダヤ人入植者は撤退せず、2000年代からはイスラエル政府が入植地をアラブ側から守るとして壁を築き、多くの部分を実効支配している。
ヨルダン川西岸 Google Map
パレスチナは長くオスマン帝国に支配され、ヨルダン川西岸もその一部であったが、ヨーロッパのユダヤ人の中にシオニズムの思想が起こると、このヨルダン川西岸の「ユダヤとサマリヤ」の地は、旧約聖書に出てくるユダヤ民族が神から与えられた「契約の土地」である、古代イスラエル王国の一部であると意識するようになった。彼らにとってイェルサレムと共にヨルダン川西岸は象徴的な土地となった。第一次世界大戦でオスマン帝国が消滅した後、ユダヤ人の入植が始まるとヨルダン川西岸はパレスチナ問題の最大の焦点となっていく。
ヨルダン川西岸の本来のアラブ系住民はその後、トルコ人→イギリス人→ヨルダン人→イスラエル人と統治者が変わったが、その経緯の主なポイントを上げると次のようになろう。 → パレスチナ問題
イギリス委任統治
- 1922年 国際連盟がパレスチナをイギリスの委任統治領とすることを認める。ヨーロッパ各地からのユダヤ人がヨルダン川西岸にも入植が増加し始める。当初は先住のアラブ系パレスチナ人と共存した。
- 1947年 国際連合のパレスチナ分割決議ではヨルダン川西岸は将来のパレスチナ国家の一部とされた。
- 1948年 イスラエル建国。ただちに第1次中東戦争が勃発。ヨルダン川西岸はヨルダンが占領。翌49年休戦協定でヨルダン領とすることが決まる。
- 1950年からヨルダンの支配。フセイン国王(53年即位)はパレスチナ人の保護を打ち出すが実質的には軍事支配となる。
- 1967年、第3次中東戦争勃発。イスラエル軍はエジプト領ガザ地区、シリア領ゴラン高原、ヨルダン領ヨルダン川西岸を同時に侵攻していずれも占領。同時に同じくヨルダン管理下にあったイェルサレムの旧市街(東イェルサレム)もイスラエル軍が占領した。
- イスラエルの軍による事実上の支配のもと、ユダヤ人にとってヨルダン川西岸と東イェルサレムへの侵攻は「契約の土地」を取り戻すことであると主張に基づき、積極的な入植をその後も進めた。一方、多くのアラブ系住民がパレスチナ難民としてヨルダンなどに避難していった。パレスチナ難民の解放を目指すパレスチナ解放機構(PLO)は各地でゲリラ活動を開始した。
- 1970年 ヨルダン内戦 ヨルダン政府によってPLOがヨルダンから排除される。
- 1974年10月のアラブ連盟加盟国の首脳会議(アラブ・サミット)で、パレスチナ解放機構(PLO)がパレスチナ人の唯一正統な代表と認められると、ヨルダンはヨルダン川西岸に対する統治権を放棄し、パレスチナ国家の樹立を承認。
- 1987年 パレスチナ人によるイスラエル軍事支配に対する抗議行動であるインティファーダ(第一次)が一斉に始まる。
- 1993年 オスロ合意に基づきパレスチナ暫定自治協定が成立。「二国家共存」模索始まる。
- 1994年5月にパレスチナ暫定自治行政府が発足。ヨルダン川西岸は離れたガザ地区でともに“暫定自治行政府”が統治することとなる。
- 1995年5月 パレスチナ暫定自治についてのカイロ協定。ガザとエリコの先行自治が決まる。7月、PLOアラファト議長、ガザに帰還。
- 1995年9月 パレスチナ自治拡大協定(オスロ2)締結。ジェニーン、ナブルス、ラマラなど6都市に自治拡大。ヨルダン川西岸は次の3地区に分けられる。A地域:自治政府が治安及び民政に責任を負う。B:自治政府が民政に責任を負うが、治安はイスラエル軍が当たる。C地域:民政・治安ともイスラエル軍が責任を持つ。
- 1995年11月 イスラエルのラビン首相が暗殺される。
- 1996年1月 パレスチナ自治行政府大統領選挙、アラファト選出される。
- 2000年、パレスチナでインティファーダ(第2次)起きる。
- 2002年、イスラエル軍、ヨルダン川西岸に侵攻、アラファト議長を監禁。
- 2001年2月 イスラエル首相シャロン、ヨルダン川西岸のユダヤ人入植地にパレスチナ・ゲリラから守るという名目で壁を築き始めた。
- 2005年にガザ地区のパレスチナ人は自治が認められ、次いでヨルダン川西岸が焦点となった。
聖地へブロンでの抗争 1994年
ヨルダン川西岸の南部にあり、西岸最大の都市であるヘブロンは、ユダヤ人入植者とパレスチナ人の激しい衝突の最前線となっている。ヘブロンの旧市街にある「マクペラの洞窟」はユダヤ教の聖地の一つで、イスラエル人の始祖とされるアブラハムの聖廟などがある。そこに635年ごろイスラーム教徒が侵入し、洞窟の上にイブラヒム・モスクを建設し、イスラーム教徒にとっても聖地となった。1994年4月にはイブラヒム・モスクで礼拝中のイスラーム教徒が狂信的な宗教シオニズムの信奉者集団に虐殺されるという事件がおこり、それを機にヘブロンはパレスチナ自治政府の管轄区域と「マクペラの洞窟」を含むイスラエル軍の管轄区域に分離された。「マクペラの洞窟」周辺には過激な宗教シオニストが入植を強行し、パレスチナ人とのにらみ合いが続いている。<森戸幸次『中東和平構想の現実―パレスチナに「二国家共存」は可能か』2011 平凡社新書 p.68-70>二国家共存の破綻
イスラエルは国際世論に押されるかたちでガザ地区からの入植者と軍隊の撤退には応じたが、ヨルダン川西岸地区では現状を変更しようとしていない。公式にはパレスチナ暫定政府の統治下にありながら、直接パレスチナ当局が行政上の統治ができるのは約4割にとどまり、6割はイスラエル人の入植地でパレスチナ当局は統治できない。またイスラエル当局は、イスラエル人入植者をパレスチナ・ゲリラの自爆テロから守るという口実で高さ4~8mの壁を建設、その長さは680kmに及んでいる。ヨルダン川西岸地区のパレスチナ系住民は、パレスチナ暫定自治政権の統治下にあるが、その実態はパレスチナ解放機構(PLO)の主流派ファタハが権力を握っている。同じ自治政府でも、ガザ地区を実効支配しているハマスとは対立関係にある。また、パレスチナ暫定自治政府をパレスチナ国家の政府として承認している国は増えているとは言え、アメリカやEU諸国、日本は未承認であり、国際連合でもまだ正式加盟国ではなく、オブザーバーとして出席しているだけである。パレスチナは、独立国として国際的な扱われていないだけでなく、イスラエルとの厳しい軍事的対立、ファタハとハマスの内部対立、民主的な統治機構の未成熟など、困難な課題を抱えている。
2023年10月7日、ハマスがガザ地区の拠点からイスラエルにロケット弾を発射、国境を越えて侵攻。イスラエルはただちに報復の空爆、さらに陸上でもガザ地区に侵攻した。パレスチナはまたしても戦争状態に突入した。 → イスラエルのガザ侵攻
参考 グロスマン『ヨルダン川西岸』
ヨルダン川西岸のパレスチナ人とイスラエル人はどのような関係にあるのだろうか。パレスチナ人の難民キャンプ、イスラエル人の入植地の実際はどうなっているのだろうか。なかなかマスコミ情報では伝わってこないが、1988年に発表されたイスラエルの作家でジャーナリストであるディヴィット・グロスマンのルポルタージュ『ヨルダン川西岸』が日本語にも翻訳されている。グロスマンは1954年にイェルサレムで生まれたユダヤ人で、父はポーランドからイスラエル建国時に移住してきた。第3次、第4次中東戦争ではイスラエル兵士として従軍したが、現在では平和活動家として積極的な発言を行い、パレスチナ人との和解を探っている。それだけに彼の観察眼は厳しく、平和を求める思いは切実なものがある。『ヨルダン川西岸』は、グロスマンがユダヤ人としてパレスチナ人地域に足を踏み入れ、直に取材し、話をし感じたことを率直に語っている。そして、その地のパレスチナ人と、入植した側のユダヤ人たちの本音を引き出している。時期は1980年代であるが、40年以上経った現在でも状況は全く変わっていない。いくつか印象に残ったシーンがあるが、ごく一部を紹介しよう。
難民キャンプの子どもたち パレスチナ人の難民キャンプ・ディヘイシアの幼稚園を訪ねる。2歳の子供がグロスマンがユダヤ人だと知ると、銃で撃つまねをする。先生たちは止めようとしない。
(引用)私はこの点について、もう少しくわしく述べておきたい。つまり幼い子どもたちのことだ。鼻水をたらし、通りすがりの車にきゃっきゃっとさわぐような、道ばたでよく見かける名もない子どもたちについて。これこそ67年(引用者注:第3次中東戦争)には私たちに一グルーシュでイチジクを売り、10グルーシュで私たちの親の代の車を洗っていた子どもたちだ。そしてその後、彼らは少し大きくなって、目に憎しみをたたえた<例のシャバーブ(若者)>になり、街頭で暴動を起こしてわがほうの兵士に石を投げ、イトスギ゙のてっぺんに輪縄を投げて地面にねじ曲げ、パレスチナの旗をとりつけて手を放す、といった芸当をやらかした。――――そうすると、イスラエル人の兵士が、木を切ってその旗の三日月を切り落とすのだ。さらにその後、連中がまた少し大きくなると、火炎びんや爆弾をつくるものが出てきた。この子たちは67年から変わっていない。難民キャンプでは何も変わっていないし、彼らの未来は、太古からの化石として受け継がれた記録のように、ちゃんと顔に書いてある。<デイヴィッド・グロスマン/千本健一郎訳『ヨルダン川西岸 アラブ人とユダヤ人』双書・20世紀紀行 原書は1988刊 晶文社1992 p.29-30>このときグロスマンが難民キャンプで会ったこどもたちが、2023年には37歳になっている。
イスラエルの過激派 ヨルダン川西岸への入植者の中で、パレスチナ人との共存を否定する強硬派は、グーシュ・エムニームと言われる人々で、グロスマンは彼らの考えをも丹念に聞き書きしている。彼らはヨルダン川西岸にユダヤ人が住むのは神との約束であると深く信じ、地下組織を作ってアラブ人のバスに爆弾を仕掛けたり、イスラームの礼拝所「岩のドーム」の爆破を計画したりしてアラブ人を排斥しようとしている。アラブ人と話し合う気持ちはないのか、という問いに対して、その一人は答えた。
(引用)答えは簡単です。自分としては周辺のアラブ人の状況については一刻も考えたくない。なぜなら彼らとは対立していて、いまも戦いはつづいているからです。もし気を抜いてあわれんだり、一人ひとりの顔を思いうかべたりすれば、こちらの立場は弱くなり、危険なことになりかねないからです、と彼は言った。部屋のなかにいる人たちは一斉にうなずいた。<グロスマン『同上書』 p.58-59>このユダヤ人強硬派の言う「約束の地」はヨルダン川西岸だけではない。ヨルダン川を挟んだ東側、つまりトランス・ヨルダンの地も含まれる。その地も含んだ「大イスラエル」を建設するのが究極の目標だという。このユダヤ人過激派はユダヤ人の多くから支持されているわけではなく、ほとんどのユダヤ人は穏健派だが、アラブ人に対する見方は共通している。
イスラエル生まれのユダヤ人 サブラ 1948年のイスラエル建国後に、イスラエルで生まれたユダヤ人をサブラという。彼らは「最前線」であった父祖の世代が獲得した土地で生まれ、それを守ることを使命としている。彼らから見ればアラブ人は周りに大きなアラブ国家を持っているのだから、そちらで暮らせばいいと思っている。アラブ人がイスラエルにとどまるのはかまわないが、そこに独立国家(つまりパレスチナ国家)を作る余地はない。せいぜい自治を認める程度だが、アラブ人の人口比率が高くなってしまえば国を奪われる恐れがある。それを防ぐには、入植地のユダヤ人を増やさなければならない。だから世界中から新たなユダヤ人の入植に期待したい、とグロスマンの問いに対してインテリのサブラは穏やかな口調で語る。<グロスマン『同上書』 p.131-152>
耐える(スムード)と耐える人(サマディーン) アラビア語で耐えること、あくまで屈しないことを「スムード」といい、耐えている人々を「サマディーン」という。1978年にバグダッドで開かれたアラブ首脳会議ではイスラエル占領下で生きる150万のパレスチナ難民をサマディーンと定義し「断固とした姿勢に対する援助基金」を設立し年間1億5千万ドルをふり向けることにした。これも最近はほとんど機能していない。アラブ諸国がそれぞれの負担金を出さなくなったからだ。グロスマンはパレスチナ人の弁護士で作家もあるラジャ・シェハデに、20年たっても<スムード>でいることに疲れないのか、と問う。
(引用)「疲れてなんかいない」と彼はいった。「私はまだ信じつづけています。パレスチナ人としての私に開かれている二つの道――――占領に屈して協力するか、占領に反対して武器を取るか。この二つの可能性はいずれも人間性を損なうと考えて――――、私は第三の道を選んでいる。ここに踏みとどまって自分の家が刑務所になるのを見届けるているのです。私はこの刑務所を離れようとは思わない。いったん離れたら、もどってこようとしても看守が許してはくれないでしょう。<グロスマン『同上書』 p.194>「マスード」という言葉を用いたラジャ・シェハデについては、エドワード・W・サイードが『パレスチナとは何か』1995 岩波現代文庫 p.164 でも言及している。
パレスチナ知識人のイスラエル観 ユダヤ人であるグロスマンの問いに対してパレスチナの知識人ラジャ・シェハデは次のように答えている。
(引用)「初めのころは、イスラエル人というのは新人類じゃないかと思いました。またじっさい、あなた方にはいいところがある。友情にしても率直さにしても、お互いに責任感が強いところも。その点は感心しました。あなた方はたしかに、自分たちを過去から解放し、自力で新しい生活を築こうとして、これまでにないものを創り出してきた。問題はそれが西岸地区での私の自由とぶつかるときで、そんなときは、ちょっと手放しで感心するわけにもいかない。イスラエルはある面では、アラブ人に対するいい意味での挑戦なのです。イスラエルには勢いがある。ほとんど死に絶えたものが甦った姿なのです。これについてははっきり評価をくだすのはむずかしい。なぜならイスラエルのユダヤ人にくらべると、世界中に散らばっているユダヤ人の方が知性の面で、文化の面で、経済の面ですらはるかに進んでいるからです。イスラエル法体系はみごとです。もちろん、占領のため後退していますがね。占領によって何もかも腐敗しています。占領がつづいているために、たえず奇妙でゆがんだ難問がつきつけられています。それに対して裁判所が答えをだすのはむずかしい。じつをいえば、占領によって大損害を受けているのは、あなた方なんです。イギリスは世界の半分を征服しました。が、その当時すでに成熟した国家だった。それに対する準備ができていた。イスラエルには準備がなかった。あなたがたは若すぎたのです」<グロスマン『同上書』 p.201>「占領」という軍事支配 グロスマンの取材中、イスラエル軍によるパレスチナ人に対する謂れ無い暴力、それに対する報復、の現場にぶつかる。恐怖の連鎖の中で互いを人間と見ることができなくなる。イスラエルは占領を法的な根拠にもとづいているといっているものの、その実態はむき出しの敵視による軍事支配、自由の抑圧だった。そのなかで子どもは青年になる過程でいやおうなく現実に迫られ、「あいまいさ」は許されず、兵士かテロリストになっていく。
(引用)・・・若い兵士(たぶん農民の息子だろう)は若木を切り倒さなければならないようなときに、どんな思いがするのだろう。丘の上の新しい入植地の建設現場で自分の村を見おろしながら働くアラブ人たちは、どんな思いをしているのだろう。・・・ヘブライ大学でアラブ人といっしょに勉強している学生の予備役兵が突然、ナブルスにあるアン=ナジャフ大学でデモ隊の輪に銃をむけなければならないとき、彼らは何を感じるだろうか。グロスマンの予感 グロスマンはイスラエル軍兵士(この国にはすべての青年に兵役の義務がある)として第三次と第四次の中東戦争に従軍した後、作家、ジャーナリストとして活動するようになったが、しばらくの間はパレスチナの「占領」はスフィンクスと同じ答えのない問いであった。「西岸というあの腎臓の形をした土地が自分の意に反して移植された一つの臓器」に思えてきて(東エルサレムも含めて)足を踏み入れることをためらっていた。しかし、看守と囚人の関係にあることにいつまでも耐えることができるだろうか、と思い始めるようになり、ニュース週刊誌の取材の申し出を機会に、1987年(第一次インティファーダの直前)にヨルダン川西岸を訪ねたのだった。そして取材を重ね、この本を書いた。その最後のところで次のように書いている。
もう一つ、分からないことがある。子どもたちにどんな現実感覚をもたせるように教育すればいいのか。私が息子たちに教えることに、どこまであいまいさが許されるのだろう。息子たちを育てるにあたって、一定の価値観を吹き込みながら、われわれがここで演じている非人間的な生き方に触れないとしたら、十分な教育とはいえないのではないか。
そして最後の疑問――――こんなことは永遠につづくわけはないと思うだけで、やがては状況が変わるという納得のいく保障になるものだろうか。<グロスマン『同上書』 p.266>
(引用)私は悪い予感がする。――――いまの状況がこのまま、また10年、20年つづくのではないか。それには一つ、はっきりした裏付けがある。人間としての愚かさと、迫ってくる危険を直視したくないという気持ちがそれだ。だがわれわれが現在よりはるかに不利な立場に追い込まれていても不思議はない。<グロスマン『同上書』 p.279>グロスマンがヨルダン川西岸を訪ねた1988年から、30年以上経つ現在、その悪い予感は、その通りになったといわざるを得ない。しかも、グロスマン自身、息子の一人(重ねていうが、この国ではすべての青年に兵役の義務があるのだ)が2006年8月のレバノンのヒズボラとの戦闘で戦死しいる<船津靖『パレスチナ――聖地の紛争』2011 中公新書 p.245による>。
1993年のオスロ合意の後、和平と和解を進められなかったのは、問題のむずかしさというより、イスラエルとパレスチナ(PLO)という両当事者の勇気、決断力の不足があった。しかしそれだけでなく、アメリカ、ロシア、EU、そしてアラブ諸国、イランなどの周辺諸国の無為の責任が大きい。国際社会は、オスロ合意で解決がついたと錯覚し、こじらせているのはハマスなど原理主義者のテロ行為だとする見方が主流となっているが、本質的問題はこのグロスマンのルポで告発されたイスラエルのヨルダン川西岸に対する「占領」にある。そして2023年10月7日のハマスのイスラエルに対するテロ攻撃に対して始まった「ガザ戦争」は、あらためて国際社会にもう一つの焦点であるヨルダン川西岸(および東イェルサレム)に同質の問題があることを知らしめることとなった。<2023/11/8記>