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インド人民党/BJP

1980年代に急速に台頭したヒンドゥー至上主義を理念とするインドの政党(略称BJP)で、1998年に政権を獲得した。2004年に一旦下野したが、その間、経済成長と穏健な外交に転換、2014年に政権に復帰してモディ首相が積極的な外交を展開している。

 インド人民党は現代インドの政党で、結成は比較的新しく、1980年。Bharatiya Janata Party 略称はBJPヒンドゥー至上主義(ヒンドゥー・ナショナリズム)をその理念とし、戦後のインドの政治を支配していたインド国民会議派が企業の国有化など社会主義的な政策を採るようになったことに反発し、自由主義経済の徹底を主張、汚職などの政権の腐敗を根絶することをかかげている。指導部には上位カースト出身者が多い。「人民」をなのっているが左翼政党ではなく、ヒンドゥー至上主義(ナショナリズム)を掲げる、保守派、右派政党とされている。

民族奉仕団の結成

 その基盤は、1925年に創設された民族奉仕団(RSS)という大衆組織にある。RSSはヒンドゥー至上主義の影響を受けて、ヒンドゥー教徒としての自覚を高め、教徒相互の紐帯とするのが目的で結成された宗教的修養団体であるが、次第に民族主義的主張を強めていった。その思想は反イスラームを鮮明にするとともに、ガンディーらの国民会議派主導の運動がイスラーム教徒に対して妥協しすぎているという非難を強め、インド・パキスタンの分離独立後の1948年1月に、RSSのメンバーとされた青年がガンディーを暗殺したため、組織は非合法化されメンバー約2万人が逮捕された。第2代指導者ゴールワルカルは、1949年7月に非合法が解除されると、運動には政治的な発言力を持つことが必要であることを痛感し、1951年に政治政党ジャン・サング(大衆連盟)を結成した。
 インドはヒンドゥー教徒が多数を占める国家として独立したものの、国民にはまだ多数のイスラーム教徒、それ以外の仏教徒やゾロアスター教徒、シク教徒らが存在していた。国民会議派のネルー政権以来、政教分離主義(セキュラリズム)を国是としていたが、イスラーム国家パキスタンとの国境紛争などから、次第にヒンドゥー教徒とイスラーム教徒(ムスリム)の間に互いに相手を排除する宗教的対立(コミュナリズムといわれる)が醸成されていった。

インド人民党の結党

 長期政権を続けていた国民会議派インディラ=ガンディー政権は1975年に非常事態宣言を発し、RSSを再び非合法としたため、RSSが存立の危機にさらされると、ジャンサングは反国民会議派の政権樹立を目指し、ジャナタ党に加わり、1977年の総選挙ではじめて国民会議派を破り、政権を獲得した。しかし、内部分裂が起こって政権は弱体化し、1980年総選挙では敗れインディラ=ガンディーに政権復帰を許した。ジャナタ党も分裂し、ジャンサングは新たにインド人民党(BJP)と改称した。こうしてヒンドゥー教改革運動団体としてのRSSを基盤とした、政治団体BJPという二重構造の関係が成立し、現在に及んでいる。
 1980年以来、独立後の国民会議派長期政権の政教分離主義(セキュラリズム)のもと、政治的腐敗が現れ、また社会主義寄りの政策による経済停滞に対する不満も顕著になっていくなかで、「インド人民党」はヒンドゥー・ナショナリズムにもとづいて反イスラームを標榜し、地主・中小資本家、都市中間層を基盤とした政党として次第に存在感を示すに至り、1989年には政権を獲得した。ただし「人民党」を名のるが、それは従来の「人民民主主義」を意味するものではなく、その支持基盤の労働者大衆(いわゆる人民)ではないことに注意しよう。インド人民党の基盤であるRSSは、1930年代にはあからさまにヒトラーを礼賛し、ナチスに倣った運動を目指していた。現在も、アーリア人のインドという民族主義を標榜し、イスラーム教徒などの非ヒンドゥー教徒を排除することを主張しているので、欧米ではインドにおけるファシズムの台頭、レイシズム(人種差別主義)による人権侵害などを問題視する見方もある。
 特に1990年代にそれは激しくなり、1992年12月にはヒンドゥー教徒がイスラーム教モスクを破壊したことからアヨーディヤ事件という大規模な衝突がおこった。このころから、インド人民党はヒンドゥー至上主義の立場からインドを純粋なヒンドゥー教国家にすることを強く主張するようになった。

インド人民党の政権獲得

 インド人民党は1996年の総選挙ではじめて連立政権に参加し、さらに1998年の総選挙でインド国民会議派が敗北したため、政権交代が実現、インド人民党のヴァージーぺーイー(日本ではバジパイと表記された)が首相となり政権を担った(04年まで)。カシミールで国境問題を抱えるイスラーム教国パキスタンに対しては強硬姿勢をとり、同1998年5月28日、軍事目的でインドの核実験を強行した。それに反発したパキスタンが数日後に地下核実験に踏み切り、核保有国となったことによって、南アジアでの核戦争の危機が懸念されている。
 この間、ヒンドゥー至上主義者によるイスラーム教徒に対する強硬姿勢はますます強まり、2002年にはアーメダバードでによるイスラーム教徒襲撃事件で約千人の犠牲が出るなど、宗教対立が相次いだ。

下野と復帰

 しかし、2004年の総選挙では、インド国民会議派に第1党の座を譲った。これは、過激な反イスラーム姿勢をとり続けるインド人民党に対し、穏健なヒンドゥー教徒の支持が離れた結果であると考えられた。下野したインド人民党は、それまでの宗教対立(コミュナリズム)を煽ることによって党勢を広げてきた従来の手法を転換せざるを得なくなった。
 2014年5月の下院総選挙では、新たに党首となったナレンドラ=モディ党首の下で、経済成長を最優先する政策を前面に打ち出し、「全国民とともに」という表現で反イスラーム色を薄めることに努めた結果、第1党の座に返り咲いた。モディ首相は2014年5月の首相就任式に初めてパキスタンのシャリーフ首相を招待、15年12月には自らパキスタンに赴いて首脳間の会談を行うなど、従来の対決一点張りの姿勢を見事に修正した。カシミール帰属問題の現地では、なおも緊張が続いているが、衝突は避ける気運が出ている。国内では、の保護運動などを強めるなど、イスラーム教徒との対決姿勢は弱まっていない。

モディ首相の積極外交

 モディ首相で目立つのは積極的な外交であり、特に中国に対しては、習近平が打ち出している一帯一路政策を牽制しながら、上海協力機構には参加し、経済協力の姿勢をとっている。また中国に対する牽制の上でも日本との関係は重視し、安倍内閣とは密接な連携を築いた。2017年、日米豪印戦略対話(Quadrilateral Security Dialogue、略称 クワッド Quad 2007年発足)の連携強化で合意しており、こちらはインド太平洋地域における中国の覇権を阻止するための、アジアのNATOとも言われる機構である。同時にインドはBRICSの主要構成国としてロシア、中国とも協調の姿勢をとっており、また、2023年にはG20をニューデリーで開催、議長国としてグローバルサウスの盟主としての主導権をとろうとした。
 インド人民党は、外交・安全保障ではかつてのような宗教ナショナリズムを前面に出すことは少なくなり、国内政治でも現実的な経済成長を目指す姿勢への転換を見せているが、それでもヒンドゥー至上主義を党の精神としていることは変わりなく、なお今後の国内問題、外交問題の舵取りが注目される。